「頭痛肩こり樋口一葉」 名作女優劇、あせない魅力
何度見ても心打たれる芝居なんて、そうそうあるものではない。「新作」が使い捨てにされる演劇界の現状にあっては、なおさら。井上ひさしの「頭痛肩こり樋口一葉」が貴重であるゆえんだ。井上演劇を上演するこまつ座の好舞台(東宝と共同製作)から、その魅力の秘密を探ってみよう。
歌の魅力
ぼんぼん盆の十六日に 地獄の地獄の蓋があく 地獄の釜の蓋があく……
闇の中から童歌(わらべうた)のような「盆の練り歩き歌」が近づいてくるという幕開きだ。かわいらしい童歌は残酷な内容をもつことが多いが、まさにそんな歌。井上ひさしとテレビ「ひょっこりひょうたん島」以来の名コンビだった宇野誠一郎の音楽が鮮やかに響く。日本語の韻律を生かす井上ひさしの音楽劇の中でも会心の導入部なのである。
明治の女流作家、樋口一葉(1872~1896年)の幸薄い人生をたどる舞台は、年々の盆の情景を描きだす。「たけくらべ」「にごりえ」など珠玉の作品を残した一葉は極貧の家を文才で支えたが、肺結核となって24歳で夭折(ようせつ)した。母、姉夏子(一葉)、妹邦子の女の暮らしがいかに酷薄なものだったか。借金まみれの苦しみが仏壇の目立つ質素なわび住まいに映りでる。死者を迎える盆の習俗、幽霊の出る夏芝居の伝統を踏まえているあたりも心憎い。
男の身勝手な横暴さ、苦界に沈む女のうめき。樋口家につどって思いのたけを吐露する女たちの心情を受け、ゆるゆると流れる音楽が悲劇調でないのもいい。オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」の有名な「舟歌」のような、優しくたゆたう旋律。
わたしたちのこころは あなのあいたいれもの わたしたちのこころは あなだらけのいれもの……。
苦しみを溶かし、祈りに転じる音楽といえるだろう。
幽霊の面白さ
自分で自分の戒名をつける一葉には幽霊が見える。井上ひさしの作劇で幽霊はおなじみ。代表例は原爆で死んだ父親が幽霊になって娘のもとに現れる「父と暮せば」だろうが、この舞台の花蛍というユーモラスな幽霊も「父と暮せば」の父と並ぶ傑作キャラクターといえる。
誰をうらんでいるのかわからないまま成仏できずにいる花蛍は一葉の探索で、女郎だった自分の前世を知る。大工の恋人が身請けの金を落とし、拾ったお婆さんにネコババされた。恋人は身投げし、世をはかなんだ女郎も命を絶ったという。花蛍はお婆さんのもとへ恨みをはらしにいくが、そこにも悲しい事情があり……。次々に恨みをたどるが、因果の源にたどりつけない。女を苦しめる非合理はついに皇室にまで及び、際限がない。
「これはもう世の中を丸ごと恨め、というのと同じ。いくらなんだって世の中全体に取り憑(つ)くなんてことはできやしない。だから諦めたのよ」。おひとよしの花蛍は幽霊である自分を最後に否定する。こんな奇抜な幽霊を創造したのは、井上ひさししかいないのではないか。
1984年、こまつ座の旗揚げ公演における初演から花蛍を一貫して演じたのは、文学座の新橋耐子だった。大仰な声色、蝶(ちょう)のようにひらひら動くおかしさが抜群。ほかに大橋芳枝、池畑慎之介も演じたことがあるが、おどろおどろしい新橋耐子の壁は超えられなかった。ところが今回、前回から演じる若村麻由美が大奮闘、客席をわかしているのに驚いた。コメディエンヌの才が開花、バタリと倒れる呼吸がおかしい。おかしみに加え、透明な悲しみを帯びる花蛍だ。終盤の憔悴(しょうすい)ぶりにまだ伸びしろがあり、今後が楽しみだ。
死者によって生者は生かされている。井上ひさしの演劇は年を経るにしたがい、そういう思想を強めた。理屈っぽい話になるけれど、そこには日本の演劇の源にある能の構造が実は隠されていただろう。
能の舞台はおおおむね、こういう展開をとる。旅の僧の前に死者の化身が現れ、その本体を現す。前世の悲運を物語り、ひとしきり舞ったあと供養されて闇の国にかえる。専門用語では夢幻能ともいう。
能だけでなく茶の湯も連歌も座の芸能であり、主人も客人も思いをひとつにして一座を建立する。自作を上演するための劇団名に座をつけ、公演プログラムを「The座」と名づけた井上ひさしは、一座建立が演劇なのだと考えていたふしがある。
演出家として舞台を生き生きと弾ませてきたのは木村光一だったが、前回公演から継承した栗山民也は井上ひさしの思いを深くくみとり、新たな世界を完成させたといえそうだ。能舞台のように、これ以上ないほどそぎ落とされた空間で死者のまなざしを強調する。柱だけがあり、上部は虚空となる(松井るみ美術)。孤独な心を照らす月だけが見え、白い幽霊を宇宙の中に浮かび上がらせる行き方だ。能の演劇性を演出の起点におく栗山が編み出した空間であろう。
生き残った邦子のシルエットを薄明の中の影として見せる幕切れは、観客を酔わせるだけで終わらない。その影は邦子であり、あなたであり、私たちなのだと問いかけてくるようだ。蜷川幸雄なきあと現代演劇の中核をになう演出家だけに、こうした手法をいっそう輝かせてほしい。あえて言えば、生活感の面白さ、音楽の躍動感をどう加えていくか。荘重な交響曲に軽快な楽章が欠かせないように。
女優劇の楽しさ
出演者6人、そのすべてが女優という劇である。主役の一葉は香野百合子、日下由美、原田美枝子、宮崎淑子、未来貴子、有森也実、波乃久里子、田畑智子、小泉今日子がこれまで演じ、今回は永作博美。
中では香野の慈愛に満ちた聖母のような一葉が忘れられないが、永作のきっぱりとした一葉には明日を見すえるポジティブな勢いがある。「でもわたし小説でその因縁の糸の網に戦さを仕掛けてやったような気がする」。死に向かうやつれよりも、未来につながる生気が吹き出すようなセリフだった。明治の話を一気に現代につなげる得がたい感覚をこの女優はもっている。
他の5人は前回公演と同じで、栗山版の輪郭を肉づけする。さすがと思わせるのが母役の三田和代で「家」のしきたりに固執する頑迷さにも、夫を喪った女のかなしみをまとわせる。この役では名脇役だった大塚道子が忘れがたいが、三田和代の演技には現代的な激情が走る。そこが余人にないところ。
出入りする薄幸の女、八重は男に捨てられ、身を売るところまで落ち込む。過去、風間舞子のすさみがすごかった。今度の熊谷真実は懸命に生きる必死さに痛覚がある。妹、邦子の深谷美歩は死んだ姉を思っての「石になっているかしら」のセリフがいい。澄んだ声にりんとした力がみなぎっている。愛華みれは「わたしたちのこころは……」の歌いだしに決定力が出てきた。
こうしてみると、女優を育て大きくする演劇だということが改めてわかるのだ。
(編集委員 内田洋一)
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