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1956年から60年以上続く日本経済新聞朝刊文化面のコラム「私の履歴書」は、時代を代表する著名人が1カ月の連載で半生を語る。かつて書かれた「私の履歴書」を若い世代が読んだら、響く言葉はあるのだろうか。今回は2002年に掲載した元ヤマト運輸社長で「宅急便」の生みの親、小倉昌男さんの「私の履歴書」を、高品質セーターなど手編み製品を手がける気仙沼ニッティング(宮城県気仙沼市)の代表、御手洗瑞子さんに読んでもらった。

小倉昌男氏

小倉昌男氏

小倉昌男 おぐら・まさお】1924年生まれ、東京都出身。47年東大経卒。48年に父親が創業した大和運輸(現ヤマトホールディングス)に入社。61年取締役、65年専務、71年社長、87年会長、91年相談役。社長時代の 76年に宅急便事業を立ち上げる。2005年80歳で死去。

【御手洗瑞子 みたらい・たまこ】1985年生まれ、東京都出身。2008年東大経卒。マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、10年9月から1年間、ブータン政府で初代首相フェローとして働き、主に同国観光産業の育成に従事。東日本大震災をきっかけに帰国、気仙沼ニッティングを創立。13年に法人化し代表取締役。著書に「ブータン、これでいいのだ」「気仙沼ニッティング物語」(ともに新潮社)がある。

「ひとりひとりがすし職人」の性質を保つために

――私の履歴書から
 (「全員経営」という発想から)運転手には「すし屋の職人になってくれ」と呼びかけた。すし職人はカウンターの客と会話しながらネタをすすめ、注文を受けてすしを握り、おあいそもする。多能的であり、職人のきっぷが良ければ店は繁盛する。いちいち上司の指示を仰いでいたら客は興ざめだ。宅急便の運転手も同じ。だから、呼称も「セールスドライバー」に変えた。
(小倉昌男「私の履歴書」第19回)

最初に小倉さんがヤマトで宅急便事業をはじめたときに、それまでトラックを運転していたドライバーが「集金や伝票処理はドライバーの仕事ではない」と不満を言う場面があります。それが、次第にセールスドライバーとして、まるですし職人のように、お客さんの様子を見ながら対応するように変わっていく。結果として、お客さんに「ありがとう」と声をかけられるようになり、それが働く喜びにつながったという話がとても印象的でした。

ヤマト運輸と気仙沼ニッティングには、大きな共通点があります。それは、現場の人たちこそが主役であり、価値の源泉だということです。ヤマト運輸で言えばセールスドライバー、気仙沼ニッティングであれば編み手さんたちです。

気仙沼ニッティング社長 御手洗瑞子さん

気仙沼ニッティング社長 御手洗瑞子さん

気仙沼ニッティングの構想が動き出したのは、2011年の冬でした。私は2010年9月から1年間、ブータンで「首相フェロー」という職位の外国籍公務員として、国の産業育成の仕事をしていました。その時からコピーライターの糸井重里さんと親交があったのですが、東日本大震災の後に改めて糸井さんと対談する機会があり、その時に「気仙沼で編み物の会社をやりたいんだけどさ。社長やんない?」と唐突に言われたのがきっかけです。

そのころ気仙沼や周辺の沿岸部の多くは、地震の被害で地盤沈下していて、盛り土をするまで建物を建てることができませんでした。地盤整備の工事には3~4年はかかるといわれていて、工場や施設を新しく建てる必要がある事業は、始めることができませんでした。

そんな震災後の気仙沼で、大きな設備投資をしなくてもすぐに始められるのが「編み物」でした。漁師町である気仙沼では、漁師さんたちが昔はセーターを着ていたので、よく家族が編んでいたそうです。「編む文化」が気仙沼に根付いていたことが、最終的にアイデアを実現させる決め手となりました。

これまで水産加工工場のラインなどで働いていた編み手さんたちにとって、自分のお客さんがいて、さらに「ありがとう」という手紙が届くのはとてもうれしいこと。編み手の仕事は単純なマニュアル作業ではなく、自分のお客さんを持つすし職人のような仕事です。気仙沼ニッティングはとても小さな規模なので、比較的こうしたマネジメントがしやすいように思いますが、ヤマト運輸のように大きく拡大した組織においても、「現場が主役」「ひとりひとりがすし職人」といった方針を貫けることに驚きました。

構想段階から事業の肝を見抜いていた眼力

――私の履歴書から
 75年夏、新事業のコンセプトを自ら起草し、「宅急便開発要綱」として、役員会に提案した。ブツブツと陰にこもって反対し続ける役員を押し切り、了解を取り付けた。同年9月には約10人のワーキンググループを編成する。私と都築幹彦常務を筆頭に若手社員、組合幹部も加わり、翌年1月の営業開始を目指し、2カ月で計画を煮詰めていった。
(小倉昌男「私の履歴書」第18回)

1975年の夏に考えついて、翌年1月には小倉さんは宅急便事業を立ち上げていますよね。宅急便はインフラ事業です。それを構想から半年で開始するというのは、とんでもなく速いなと思いました。さらに小倉さんは、サービス開始当初から、運転手さんにはすし職人になれと言い、名称もセールスドライバーに変えている。「宅急便事業はサービス第一である」という方針を明確に打ち出しているんです。

事業を始めて、現場の様子を見ながらメッセージを軌道修正してここにたどり着いているのではない。これは小倉さんが、宅急便事業を最初に構想した段階から、事業の肝を見抜かれていたということだと思います。

BtoC(企業と消費者の取引)の宅急便事業は、それまで手がけていたBtoB(企業間取引)の大口貨物輸送とは事業の性質がまったく異なります。当然、勝敗を分ける事業の肝も異なる。しかし、75年夏に宅急便を構想した時点で、すでに小倉さんには宅急便事業の最終形が見えていたのではないでしょうか。だからこそ、最初から現場に伝えるメッセージが明確で、かつ、ぶれなかったのだと思います。

気仙沼ニッティングを始めるにあたっても、構想段階で事業の肝を理解し、最初から、働く人たちに正しいメッセージを伝えて徹底するということは重要でした。

「もっといい物を届けたい」気持ちの先に

気仙沼ニッティングは、お客さんが「一生もの」としてずっと大切に着られるような手編みニットをつくり、お届けしています。価格帯は7万~20万円ほど。東日本大震災後の気仙沼で、まだ船が陸に打ち上げられているような状態のときに「手編みのハイエンドブランドを始めましょう」と言ったときには、気仙沼の人たちにずいぶんと驚かれました。しかし、「ハイエンドブランドとして始める」ということと、そのために「妥協のない、いいものをつくる」ということは、この事業の肝でした。

手編みのセーターやカーディガンは、1着編み上げるのに通常50時間以上かかります。そして私たちは、編み手にまっとうな対価を支払いたい。それでも事業として成立させるには、必然的に値段は高くなります。高価格でも人に「欲しい」と思われるものをつくる必要がありました。ですので、編み手さんたちには事業のスタート段階から「私たちの仕事は、お客さまの一生ものを編む仕事です」と伝え、妥協のない仕事をしています。

気仙沼の主産業は水産業ですので、編み手も、以前は水産加工会社で働いていた人は多いです。工場での仕事は決まった作業が多いですし、直接お客さまに会うこともほとんどありません。なので、急に「お客さまの一生ものの服を編む」と言われてもピンときません。会社に高い水準の作業を求められるだけだと、負担にもなる。そこで、編み手さんがお客さまを感じられるよう、できるかぎり接点をつくるように努めました。

例えば、お客さまに商品をお届けする際に、「よろしければ編み手さんにメッセージをお願いします」と、メッセージカードと返信用封筒を同封しています。すると、編み手さんにひとことメッセージを書いて返信してくださるお客さまもいます。「ありがとう。大切に着ます」というひとことが、編み手にとってはとてもうれしいんです。自分の編んだものを、お客さまはこんなふうに大切に着てくれるのか、と体感できると、「いいものをつくろう」というモチベーションにもなります。

(聞き手は雨宮百子)

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