19世紀ピアノで弾くシューマン(後編)愛の暗号
小倉貴久子さん
ピアニストの小倉貴久子さんが1845年製作のフォルテピアノでロベルト、クララ・シューマン夫妻の曲を弾きながら、音符に隠された2人の愛の暗号を読み解く。青年ブラームスのシューマン家訪問と弟子入り、ロベルトのライン川への投身自殺未遂など、3人の音楽家の運命を当時の音色でたどる。
小倉さんは今年、1845年製作のフォルテピアノ「ヨハン・バプティスト・シュトライヒャー」によるシューマン夫妻の作品集CD「星の冠~ロベルト&クララ シューマン~」を出した。現代に近い19世紀ドイツロマン派のロベルト・シューマン(1810~56年)の曲を、当時の古いピアノで録音する例はまだ少ない。シューマンの妻でピアニスト、作曲もしたクララ(1819~96年)の作品を併録しているのも珍しい。小倉さんはクララが作曲した「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲(作品20)」について「2人の愛の結晶」と説く。その主題の根幹を成すのは、「ミレドシラ」と順次進行で下がっていく短調の音型。この「下降する5度」を「2人の愛の暗号」とみる。
ドイツロマン派の前期を代表する作曲家ロベルト・シューマンは、若い頃にはピアニストを志し、高名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィークの門をたたいた。そのヴィークの娘がクララで、父からピアノの手ほどきを受けて天才少女と呼ばれつつあった。「クララは母が離婚して家を出てしまい、寂しい少女時代を送っていた」と小倉さんは語る。「そこにロベルト・シューマンという空想でいろいろと面白い話を聞かせてくれて、ピアノもすてきに弾く青年が現れ、クララの人生に太陽みたいな希望が生まれた」
2人の愛の暗号「下降する5度」はどうやって生まれたのか。ロベルトと出会って1年後、13歳のころにクララは「ワルツ形式によるカプリス(作品2)」を作曲した。「その作品の第7曲にまず『下降する5度』による旋律が出てくる。ロベルトはそれを『クララのテーマ』と呼んでいた」と小倉さんは指摘する。「ロベルトが『すてきだね』とか言って、『下降する5度』のテーマを僕たち2人の暗号みたいなもの、秘密のマークにしよう、というような話があったと思う」
2人はヴィークに交際を禁止され、強硬に結婚を反対されたが、裁判まで起こして1840年にようやく結婚した。ロベルト30歳、クララ20歳。ロベルトのピアノ曲のほとんどは婚前に書かれ、クララにささげられた。「君のテーマだ、と言ってピアノ曲に盛り込まれたのが『下降する5度』による旋律だった」と小倉さんは話す。
クララ作曲の「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」は1853年6月8日、ロベルトが43歳の誕生日にクララが夫に贈った作品だ。その主題はロベルトが1849年に全曲完成したピアノ曲集「色とりどりの小品」の第4曲に基づく。この第4曲が書かれたのは1841年で、「結婚して間もない2人の一番幸せな時期だった」と小倉さんは説明する。
「下降する5度」による「愛の暗号」の流れを整理すると、1833年ごろのクララ作曲「ワルツ形式のカプリス~第7曲」→1841年ロベルト作曲の「色とりどりの小品~第4曲」→1853年クララ作曲の「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」となる。1853年はヨハネス・ブラームス(1833~97年)が独西部デュッセルドルフのシューマン家を初めて訪問し、知り合いになった年。「ロベルトは精神的に悪い状態になっていた」。このため「クララは2人が健康で幸せだった頃のロベルトの作品から主題を採り、幸せな生活が戻ってきてほしいという願いを込めて変奏曲を書いた」。
1854年2月、ロベルトはライン川に身を投げたが、自殺は未遂に終わる。ロベルトは精神科病棟に入り、二度とクララと一緒に自宅で過ごすことはなかった。こうした状況の中でクララや子供たちを支えたのがブラームスだった。ブラームスはロベルトの投身自殺未遂の数カ月後、1854年に「シューマンの主題による変奏曲(作品9)」を作曲しクララに贈った。このブラームスの「変奏曲」の主題は「下降する5度」によるロベルトとクララの「愛の暗号」そのものなのだ。
ブラームスが「変奏曲」をクララに贈ったことは、臆測を呼んできた。「ブラームスが『下降する5度』をシューマン夫妻の秘密の暗号だと知っていたかどうか議論はあるが、恐らく知っていたと思う」と小倉さんは話す。シューマンの死後、クララとブラームスは親友関係を続けるが、ブラームスは生涯独身を通した。映像では、小倉さんが「愛の暗号」を巡る3人の運命を、19世紀ピアノによる演奏を交えてたどっている。
先日、日本を代表するピアニスト、中村紘子さんが亡くなった。ショパン国際コンクールで4位入賞し、チャイコフスキー国際コンクールなどの審査員も務め、ラフマニノフやショパンの楽曲を日本に普及させた功績は大きい。中村さんが発展に尽力した日本のピアノ文化はさらに新しい展開を見せ始めている。その一つが小倉さんらが手掛ける古いピアノによる演奏だ。
「ヨーロッパには城や民家など様々な場所に19世紀のフォルテピアノが残っている」と小倉さんは言う。ピアノは明治以降、19世紀末になって日本に本格的に入ってきた。このため「それ以前のピアノの存在をよく知らないまま、専ら現代ピアノで演奏する状況が続いた」と小倉さんは指摘する。こうした問題意識から小倉さんは19世紀以前のピアノによる演奏活動を続けている。シリーズコンサート「モーツァルトのクラヴィーアのある部屋」では、18世紀の鍵盤楽器を使ってモーツァルトと関わりのある作曲家の作品を演奏している。23回目を9月27日に近江楽堂(東京・新宿)で開き、J.S.バッハの長男、W.F.バッハの珍しい鍵盤曲を弾く。
日本では教育やコンクール、演奏会で現代ピアノが使われてきた。しかし江戸時代に欧州で普及していたフォルテピアノが復元製作され、台数が増えれば、ピアノ自体の概念が変わる。日本人の感性が「古楽器としてのピアノ」に遭遇するとき、どんな演奏芸術が生まれるのか。19世紀ピアノの可能性が広がる。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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