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キャリアの原点

外苑の森に「杜のオリンピックスタジアム」をつくる 建築家・東京大学教授 隈研吾氏(上)

2016/8/4

リオデジャネイロ五輪がいよいよ5日(現地時間)開幕する。2020年東京五輪・パラリンピックまで4年。そのメーンスタジアムとなる「新国立競技場」のデザインを手がけるのが建築家、隈研吾氏だ。そもそも隈氏が建築を志したのは、1964年の東京五輪メーン会場となった代々木体育館との出合いだったという。明治神宮外苑に整備する新スタジアムをめぐる騒動のなか、隈氏が示した解答は木を多用した「杜(もり)のスタジアム」だった。あえて「火中の栗」を拾った思いと、建築家としての原点について聞いた。

(下)五輪スタジアム設計者、新素材『木』へのこだわり >>

◇   ◇   ◇

現在設計中の新国立競技場には、なるべく多くの木を使いたいと提案しています。木が日本的だから、ではありません。むしろ、木が普遍的でかつ21世紀的なグローバルに通用する素材だと思うから、です。

工業化社会の20世紀には、木は耐久性のない燃えやすい建材として敬遠されてきました。同じものを効率的かつ大量生産することが求められた時代には、コンクリートと鉄こそが近未来の象徴でした。

しかし、時代は変化しています。私が木という素材に取り組み続けたこの20年あまりの間に、木を燃えにくくしたり、腐りにくくしたりする技術も大きく進歩しました。

軽くて、やわらかな木こそが、未来を形づくっていく。木は大地を通じて、人と自然を結びつけてくれる――。そう考えています。

■横浜・大倉山にあった小さな木造の家

建築家・東京大学教授 隈研吾氏

生まれたのは、横浜市の大倉山です。私は1954年生まれですが、そのころの大倉山は郊外型の家と昔ながらの農家の家が混在している、不思議な場所でした。マンションなどまだ一つもなくて、東急東横線の大倉山駅のすぐ脇から田んぼと畑が広がっていました。

私が育った木造の家は、駅から100メートルくらいの場所にありました。もとは、母方の祖父が週末を過ごすために建てた「別荘」です。東京で開業医をしていた祖父は週末になると大倉山へやってきて、黙って土いじりをしていたそうです。祖父が借りていた畑の隅に建てた平屋建ての小屋が、のちに私の生家になったというわけです。

大家さんである農家には、私と年の近い「ジュンコちゃん」という女の子がいました。子供のころはよく、この「ジュンコちゃんち」で遊んでいました。土間には野菜が干してありました。台所の床下には蛇もいました。軒先でいつも誰かが農作業をしている様子を見ては、にぎやかなでいいな、うらやましいな、と思っていました。

ジュンコちゃんちとは対照的に、私の家は両親と妹の4人暮らし。近所づきあいもほとんどない、典型的な核家族の家でした。父は三菱金属鉱業(現三菱マテリアル)に勤めるサラリーマンで、結婚が遅かったために、私とは45歳も年が離れていました。

明治生まれの父は、何ごとにも厳しい人でした。普段はとても怖くて、ものが言えないほど。親子とはいえ、一緒に遊ぶような雰囲気はまったくありません。そんな怖い父親の下で育ちましたから、子供のころはすごくおとなしかったんです。滑舌も悪かったため、アナウンサーのような発声練習もさせられました。壁に「あいうえおえおあお」と書いた紙を貼り、大きな声で読み上げるんです。

サラリーマンの父は、日曜日になると楽しげにゴルフに出かけていきました。専業主婦の母が一人、ぽつんと家に取り残されてさみしそうにしている姿を眺めながら、ジュンコちゃんちとの大きな違いを感じていました。

■天井から光が降り注ぐ建築空間に圧倒された

私が小学生だったころ、つまり1960年代初頭というのは、日本におけるモダニズム建築の黎明(れいめい)期にあたります。それまであまり目立たなかった「建築家」という職業が、注目され始めていた時期でもありました。

東京・上野の「東京文化会館」を前川国男さんが設計したり、東京都町田市と横浜市にまたがる広大な敷地に「こどもの国」がつくられることになり、その施設設計にも、若手建築家たちが駆り出されていました。その中に、有名な黒川紀章さんもいました。

もともとアーティスト志望だった父はデザインが好きで、新しい建築が建つたびに見に連れて行ってくれました。子供心に、どれも「格好いいな」と思いましたが、なかでも印象的だったのは、丹下健三さんが設計した代々木体育館です。

すでにオリンピックの競技は終わっていたと思いますが、中に入るなり、その見たことも体感したこともないような空間に圧倒されました。垂直に伸びた、高く美しい屋根。その天井から曲面をなめるようにして、柔らかな光が降り注いでいました。

どうしてもその光の下で泳ぎたくて、夏になると、自宅のある横浜から1人で東急東横線に乗り、わざわざ東京・渋谷にある代々木体育館のプールまで通いました。自分もいつか、こんなふうに人を感動させられるような建築をつくりたい、と思いました。

■楽しかった間取りの家族会議

怖い父でしたが、家を増築・改装するために家族で話し合いをしている時だけは、何を言っても許される雰囲気がありました。もとは週末を過ごすためだけに建てた小屋ですから、そこに家族4人が暮らすのは無理がある。一気に家を建て替える経済的余裕のなかった父は、子供が生まれるたびに増築したり、また、私たちが大きくなるにつれて、それを改装したりしながら過ごしていました。

間取りを話し合う際には、方眼用紙を広げ、家族みんなで話し合います。父はいつも司会進行役でした。

ある時、私はふと思いついて「アルミサッシの代わりに木のサッシにしたい」と提案しました。母も妹も、それには賛成でした。意外なことに、父も私の提案を認めてくれました。すごくうれしかったのを覚えています。

父は正方形に割られた格子戸を好みました。畳は嫌いで、床を次々とフローリングに変えていきました。木よりもサッシ、土壁よりもビニールクロス、白熱灯よりも蛍光灯の方が近代的でかっこいいという時代です。父も当然、そういう価値観の中で生きていたはずですが、この時はなぜか、私たちの考え方に賛同してくれました。

もしかすると、父も心のどこかでそういう自然素材の良さみたいなものを感じていたのかもしれません。明治生まれの父と昭和20年代生まれの私。ちょうど、その間にコンクリートとアルミ、ビニールクロスが全盛となるような時代が挟まっています。

あの会議の一瞬、父と私の感性が、木という素材を通じてシンクロしていたのかもしれません。

隈研吾氏(くま・けんご)
1954年、横浜市生まれ。1979年東京大学大学院建築学科修了。米コロンビア大学客員研究員などを経て、1990年隈研吾建築都市設計事務所主宰。2009年から東大教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞、「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞。2011年「梼原・木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか:建築家・隈研吾の覚悟』『建築家、走る』『僕の場所』などがある。

(ライター 曲沼美恵)

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