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世界を股にかけて活躍する建築家、隈研吾氏。その設計事務所で働くスタッフは現在、海外の拠点を含めて200人あまりに上り、うち約3割が外国人だ。建築界のノーベル賞といわれる米プリツカー賞の受賞者は7人を数えるなど、日本人建築家への世界の評価は高いが、その未来に対して、隈氏は強い危機感を抱いているという。

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1985年からの2年間、客員研究員として米国のコロンビア大学にいました。コロンビア大には、世界最大の建築専門図書館といわれるエイブリー建築・美術図書館があります。そこで本を読みあさり、1920年代の米国建築について勉強しました。

20世紀を代表する建築家で建築界のフィクサーとしても知られる故フィリップ・ジョンソン氏や、今や共和党の大統領候補として有名になった不動産王のドナルド・トランプ氏にインタビューしたりもしました。そんな日々のなかでひしひしと感じていたのは、「建築的欲望」を成長のエンジンとする経済の在り方はおそらく、そう長くは続かないだろうということでした。

さみしそうだった父と母

建築家・東京大学教授 隈研吾氏

建築家・東京大学教授 隈研吾氏

1986年の真夏、私はニューヨークのアパートを引き払い、東京へ帰ってきました。帰ってから、様々な雑誌につづった文章を1冊の本にまとめたのが、1994年の暮れに発行した『建築的欲望の終焉』(新耀社)です。

「『建築』がおった傷は『建築不況』という形の外傷にとどまるものでは、とてもなかった。それは内臓の奥深くまで及ぶ、深く全身的な傷であった。これがひとつの不況であるならば、また好況もくるかもしれない。しかし今回の『終焉』は、そのような単純な性質のものではないという思いが、次第に僕の中で大きくふくらんできたのである」

あとがきの中で、私はそう書いています。日本がバブル経済の最中にあった1980年代半ばからバブル崩壊後の1990年代半ばへと至る10年間に、建築家に対する世間の風当たりは強くなり、求められる役割も大きく変わろうとしていました。

私が20世紀型資本主義の在り方に疑問を持つようになった原点は、母にあります。子供のころ、私の目に焼きついたさみしそうな母の姿。母だけではありませんでした。父もまた、どこかさみしそうでした。

2人はなぜ、あんなにさみしそうだったのだろう? そう考えた時、その根底には男性を会社に縛り、女性を家庭に閉じ込める住宅ローンという金融システム、そのシステムをフル回転させることで成り立っている20世紀型資本主義があるような気がしました。

20世紀に活躍した建築家たちはみな、工業化時代の産物である鉄とコンクリートをふんだんに使いました。「生産者の論理」で考えれば、鉄もコンクリートも大量生産可能で、品質管理しやすいために扱いやすく、効率的な素材だったからです。しかし、「消費者の論理」で考えれば、木の方がむしろ温かみがあって、柔らかく、扱いやすい。何より、適切にメンテナンスを施しながら長持ちさせることができれば、地球環境にもいいのです。

木は「グローバル」にも通用すると実感した

私が木という素材にこだわるようになったのは、地方のプロジェクトを手がけたことがきっかけでした。高知県梼原町では「地元の木材をたくさん使ってほしい」という要望に応え、初めての本格的な木造建築「雲の上ホテル」(1994年)を設計しました。

木を扱うのはコンクリートとは違う難しさがあります。それまで木造建築の図面など引いたことはありませんでしたから、素材について猛勉強し、木独特の組み合わせ方についても研究を重ねました。

最初に木がグローバルにも通用する素材ではないかと気づいたのは、2007年、フランスのブザンソン芸術文化センターのコンペに勝利した時でした。

ブザンソンはパリから直行の高速列車「TGV」で約2時間半、スイスの国境近くにある人口約11万人の町です。街中をΩ(オーム)型を描くように川が流れ、至るところに中世のたたずまいが残っています。コンペの対象となったのは、川沿いに倉庫が立ち並ぶ、ちょっと怖い場所でした。その荒廃した場所を再生させるため、町は美術館と音楽学校などから成る複合施設を計画していました。

私どもはこの時、レンガ張りの古い倉庫と、要塞として用いられていた五角形の建築物を保存し、それらをつなぐように木の大屋根をかける提案をしました。つまり、木の「庇(ひさし)」で古い倉庫を覆ったのです。

建物と川を結ぶようにして、川沿いに遊歩道もつくりました。川の水を町中に引いて小川をつくり、生き物も暮らせるビオトープにした。こちらは一種の「縁側」です。庇があり、雨が降ってもぬれずに散歩ができる縁側をつくったわけです。これは2013年に完成しています。

翌年には、パリの北側にあるマクドナルド通りで倉庫を改築し、市民のための文化・スポーツ施設をデザインしました。この時も既存のコンクリートの箱の上に屋根をのせる提案をしましたが、非常に評判がよく、地元の人たちにも気に入っていただいています。

完成した屋根を、地元の人たちは「折り紙屋根」と呼んでいますが、私はなにも日本風にしようと思ったわけではありません。屋根も木も、世界的に通用する建築のボキャブラリー(語彙)として用いました。それが結果的に「石の文化」で暮らしてきたフランス人にも受け入れられたのは、世界の潮流がそちらの方向に向かっているからだ、と考えています。

日本人建築家の国際性が試されるのはこれから

「脱・工業化社会」「脱・コンクリート」の流れは2000年くらいから始まり、日本では、2011年3月11日の東日本大震災で決定的になったと感じています。どんなに立派な家を持ったとしても、津波が来れば一瞬で流されてしまう。そんな不条理を目の当たりにして、多くの人たちが目にみえる財産を増やすことよりも、目に見えない「絆」を大事にしながら暮らしていくことへと向かい始めました。

木はそんな絆をつなぐための素材でもあります。

戦後、日本人建築家にとっては非常に恵まれた時代が続きました。公共建築投資が世界的に見ても多かったために、国内のプロジェクトをこなしているだけで、ある程度、腕を磨くことが可能でした。各世代に複数のライバルがいて、ライバル同士が絶えず切磋琢磨(せっさたくま)しながら、太い縄を編むようにひとつの潮流を作り出すこともできていました。

今後、その遺産を継承していけるのかについて、私は危機感を持っています。

これまで、日本人建築家は日本の総合建設会社(ゼネコン)と組んで海外に出て行けばよかった。これからはそうはいかないでしょう。建築家単独でも海外にどんどん出て行って、現地のゼネコンやスタッフとも渡り合いながらやっていかないといけない。今は日本人建築家に対する尊敬が海外にもありますから、出て行ってもなんとかなるわけですが、今後もそれが続いていく保証はありません。

真の意味で、私たちのデザインが国際的にも通用するのか、海外の仲間とも協力し合いながら目指す形をつくっていくことができるのかどうか、試されるのはこれからだと思っています。

隈研吾氏(くま・けんご)
1954年、横浜市生まれ。1979年東京大学大学院建築学科修了。米コロンビア大学客員研究員などを経て、1990年隈研吾建築都市設計事務所主宰。2009年から東大教授。1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞、「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞。2011年「梼原・木橋ミュージアム」で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『なぜぼくが新国立競技場をつくるのか:建築家・隈研吾の覚悟』『建築家、走る』『僕の場所』などがある。

(ライター 曲沼美恵)

前回掲載の「外苑の森に『杜のオリンピックスタジアム』をつくる」では、隈氏が建築家を志した原点を紹介しています。

「キャリアの原点」は原則木曜日掲載です。

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