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私の履歴書復刻版

ほくろ――病気がちだった幼少期 大阪の商家、次男として誕生 サントリー2代目社長 佐治敬三(1)

2016/7/28

73歳とは思いもかけぬ長生きである。幼少のころは、ほとんど毎年夏になると自家中毒とか疫痢とか、やっかいな病気にとりつかれ死にかけていた。あげくのはてに腺病質の烙印(らくいん)をおされ、肺尖カタルとかで1年の休学というざまである。「この子は、はたちまで生きられるかどうか」とあやぶまれていた私が、いつのころからか不思議に健康体となり、身長、体重とも人並に成長した。

大正8年(1919年)11月1日、大阪市に誕生。鳥井信治郎、妻クニの次男である。生まれてきた弟の顔をしげしげとみつめながら、兄の吉太郎がつぶやいた。「この子、おでこに蝿がとまってるデ」。生まれたときから、ひたいの大きなほくろが特徴であった。

父は、大阪の小商人のこせがれ。次男ということもあって、早くから丁稚奉公に上がっていた薬種商「小西儀助商店」を、20歳になるやならずでおいとまをいただいた。どこでどうして開業の資金を調達したのかつまびらかでないが、独立してブドー酒商をはじめたのが、わが一族が酒と関わり合うこととなったなれそめである。

母は、四国の観音寺という田舎町の旧士族、といっても下級武士の出身である。「みめうるわしく情ある」という“妻をめとらば”の歌そのままの女性であった。兄と十一違いの私は、久方ぶりに生まれたこともあって、母の愛を一身にうけた幼児期であった。

執筆した頃の筆者

生まれた時は市内に住んでいた。道修町とも釣鐘町ともいうが、もちろん記憶にはない。当時勤めていた番頭はんが後年「中ぼん、おぼえてはりまっか。わての肩車で、よう“ごりょうさん”に、つれてったげたもんでっせ」と言っていたから、おそらくその近くに住んでいたのではないかと思う。ごりょうさんとは、御霊神社。笹につけた神農さんのはりぼての虎が商売のお守りとして、特に道修町の薬屋さんで人気があった。

大正末、このころ父はいっぱしの商人になっていたのであろうか、商売の店(ずっと後まで事務所のことを「みせ」と呼んでいた)を大阪市内に置いたまま、阪急宝塚線の雲雀丘に居をかまえた。父にとっての母、つまり私の祖母の健康を気遣って、郊外に住むようになったという。雲雀丘は当時の新興住宅地、山側には急峻といっていい坂道の両側に高級住宅がならんでいた。雲雀丘駅は、珍しく請願駅、地元が造った駅で、改札口もない小さな駅のくせに、瀟洒な待合室を持っていた。春になると満開の桃や桜があたり一面をおおいつくす、全くの田園風景。

私の通っていたのは「家なき幼稚園」と名づけられ、橋詰せみ郎という幼児教育に一家言を持った方が園長であった。実際、私が入園したころは、文字通り園舎のない幼稚園で、雨がふったらこの駅の待合室ににげこんで遊ぶといったユニークな教育であった。当時の私は相当なゴンタであったらしく、同じころに在園した女性などから「鳥井さんにはいじめられた」などと後々まで冷やかされた。

小学校は電車で5分ばかり、大阪府北端の池田にあった府立師範附属小学校。1年先輩には衆議院議員の原田憲先生が在学しておられた。毎学期末に通信簿が生徒に渡される。

1年の1学期の通信簿は見事に乙ばかり、通称アヒルの行列。兄からしばしばこのことを話の種にされ悔しい思いをしたものである。つまりは出来のよい子供ではなかった。教室でもおとなしい方ではなかったようで、しばしば廊下で立たされた記憶がある。

この連載は、1993年4月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。

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