前回東京五輪、陸上好記録支えた「アンツーカー」サーフェスをテクノロジーする(1)北岡哲子日本文理大学特任教授

日経テクノロジーオンライン

国立霞ヶ丘競技場における第3回アジア競技大会の開会式。聖火台の位置(写真右上)は、東京オリンピック以降とは異なる(写真:奥アンツーカ提供)
国立霞ヶ丘競技場における第3回アジア競技大会の開会式。聖火台の位置(写真右上)は、東京オリンピック以降とは異なる(写真:奥アンツーカ提供)

テクノロジーの進化は、スポーツ用具の性能や精度を向上させた結果、種目それぞれに特化したプレースタイルをもたらすことになった。人はプロ・アマを問わず専用のウエアをまとい、専用の施設で専用の用具を使ってパフォーマンスをすることが定着した。「スポーツサーフェス」も、その例外ではない。

「サーフェス」とは、スポーツに関しては耳慣れない響きの言葉と感じる読者も多いだろう。一般には「表面」という意味で、何か物体の表面を想起させたり、あるいは米Microsoft(マイクロソフト)が2012年に発表したタブレット型コンピューターを連想したりする人が多いかもしれない。

スポーツの場合は、競技をする場所の地面や床を指し、専門家は屋外については「サーフェス」、屋内については「フロア」と呼ぶ。

語源はフランス語

現在、あらゆる競技を同一の「サーフェス」上で行うのは小学校の校庭ぐらいで、各種目専用のサーフェスでプレーすることが世の中の常識となっている。例えば、陸上競技の走路、野球、サッカー、ラグビーのスタジアム、テニスコート、ゴルフコース、バスケットコートなど枚挙にいとまがない。

著者自身、スポーツ工学という講義を担当しており、サーフェスには以前から興味を抱いていた。かなり以前にテニスに没頭していた経験から、サーフェスといえば反射的に「アンツーカー」の赤いテニスコートを思い浮かべる。

ところで、「アンツーカー」とは正しくは何だろうか。語源は、「どんな場合でも」を意味するフランス語“en tout cas”。「どのような天候でも使用できる」と解釈され、全天候性を表すようになった。もともとフランスのレンガ工場で積荷場にたまったレンガ粉の層に水たまりができないことに注目した人が、テニスコートに敷いたのが始まりだという。

今回、昭和初期のテニスコートのサーフェスを皮切りに、前回1964年の東京五輪で旧・国立競技場の陸上トラックなども手掛けた、この世界の第一人者であるサーフェス専門会社、奥アンツーカ(大阪府東大阪市)に取材する機会を得た。

取材内容を基に、サーフェスのテクノロジーについて時代背景とともに解説していく。

テニスコートが出発点

日本においてアンツーカーが利用されるスタートとなったのは、テニスコートだった。1928(昭和3)年、奥商会(のちの奥アンツーカ)創立とともに、日本初のアンツーカーコートを個人宅に完成させ、話題となった。

それまで、テニスコートやグラウンドなどの造成や整備は、庭師と呼ばれる造園会社の仕事だった。スポーツ施設専門の会社はなかったので、いきなりサーフェスに特化した会社の出現は、さぞ珍しかったことだろう。

テニスが日本に輸入されたのは明治時代。文部省が体育の教員を養成する際の指導方法を検討していたところ、1878(明治11)年に米国人教師リーランド(George Adams Leland)が紹介したという説がある。同年には横浜・山手公園に外国人慰留者のためのクラブとコートが誕生した。

そのテニスコート(クレー舗装)は天然土舗装だった。土は天候の影響を受けやすく、雨が降ると軟弱化して使えなくなる。この影響を減らすため、土質の改良が始まった。

テニスコート用には天然土(クレー)に砂や性質の異なる土を混合したサーフェスが使われていた。大正時代には陸上競技場用に、天然土に粒径5mm程度の火山砂利や石炭ガラ(鉄道や発電所で発生する石炭の燃えがら)を混合して耐雨性を高めたシンダー舗装が始まった。

オリンピックにおいては、第1回アテネ大会(1896年)から第10回ロサンゼルス大会(1932年)まで天然土のトラックが使われた。当然、土は雨に弱く、競技は雨との戦いであり、記録は天候次第という状況だった。

ロラン・ギャロで衝撃受けた日本人

近代舗装の歴史は、第11回ベルリンオリンピック(1936年)から始まった。ベルリン大会に登場した赤い人工焼成土アンツーカーを日本に紹介し、奥商会によってアンツーカー舗装が始まるきっかけを作ったのは、パリ・ブローニュの森にあるテニスコート「ローランギャロス(Stade Roland Garros)」を訪れたテニス好きの1人の日本人だった。

その日本人がテニスの試合を観戦しているとき、急に激しい雨が降り出した。日本ではすぐ試合中止となるのが普通だったが、ロラン・ギャロではコート表面に水がたまり始めても、観客は誰一人席を立たずに待っていた。彼はとても不思議に思いながらも、周りのまねをして待ってみた。

雨がやんだ途端、コートキーパーが出現し、長い火箸のようなものでコートのあちこちに穴を開け始めた。この光景を驚きとともに凝視していると、何と水がぐんぐんと引いていく。最後には、コートキーパーが金網のようなものを引いて穴をならし、元通りの美しいコートがまるでマジックのようによみがえった。それこそがアンツーカーだった(図1)。

図1 降雨時の「ローランギャロス」のアンツーカーコート(撮影:片岡直方氏、大阪ガス提供)

その日本人、元大阪ガス会長の片岡直方氏はサンプルを持ち帰り、ローランギャロス以上のアンツーカーコートを造ってほしいと、奥商会の奥 庚子彦(かねひこ)社長(当時)に依頼した。もともとテニス好きであり、日本のコート状態に不満を持っていた奥社長は、趣味と実益を兼ねてサーフェス専門の会社を設立し、国産初のアンツーカー造成をはじめとして多くの実績を残した。

テニスコートから陸上競技場へ

サーフェスの歴史を語る上で、避けては通れないのが国立競技場である。近代日本における最大のスタジアムは、1924(大正13)年に完成し、1957(昭和32)年に解体された「明治神宮外苑競技場」だった。解体の翌1958(昭和33)年には新たな競技場「国立霞ヶ丘競技場」が完成。これは2015年に解体され、現在2020年の東京オリンピックに向けて新国立競技場へと進化する予定だ。

初代国立競技場である明治神宮外苑競技場は、1943(昭和18)年に、2万5000人の若人を戦場に送り出す出陣学徒壮行会が挙行される舞台となった。敗戦後には連合国に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム」と名を変え、1952(昭和27)年の平和条約締結とともに日本人の手にかえり、明治神宮外苑競技場へ名前が戻ったという歴史を持つ。

1943年、太平洋戦争の戦況の悪化とともに日本のテニスクラブは解散に追い込まれた。終戦後、進駐軍の占領が始まり、スポーツ振興を掲げたダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官は、第1回国民体育大会を京都の西京極陸上競技場で開催した。その競技場の施工を任されたのが、奥庚子彦氏だった。

それまでテニスコート造りしか手掛けたことのなかった奥氏に躊躇(ちゅうちょ)はあった。しかし、それまでの知見を最大限利用し、陸上競技場のポイントはより固く仕上げることだという直感を信じ、仕事を受けることを決断した。その後、第2回から9回、日本全国で行われる国民体育大会の会場すべてで奥氏の施工が続き、これがやがて日本を代表する国立陸上競技場に関わっていく伏線となった。

1957年に国立霞ヶ丘競技場が15億円で竣工したのを機に、それまで土だった走路をアンツーカーに改修した。テニスコートでは20mm厚だったアンツーカーを、陸上競技場では50mm厚敷いた。表面を締め固める(転圧)ためのローラーも大きく、微妙な調整が必要だったが、このようなコンディションの加減は、先の京都の西京極競技場施工の経験がとてもプラスになったという。

こけら落としとして、東京オリンピックの前哨戦であるアジア競技大会が行われ、アンツーカーを世界にアピールできたという。また、1964(昭和39)年のオリンピック開催が東京に決まり、奥氏にとって新たな目標が生まれた。

「ローマの謎」に悩む

というのも、東京オリンピックより1つ前の1960(昭和35)年ローマ大会において、スタジアムのアンツーカーは「日本国内のものよりスパイクのかかりがよく走りやすかった」と、帰国した多くの選手が圧倒的な違いを口々に証言したからだ。

そのため奥氏は周囲から「4年後の東京オリンピックでローマを超える記録が出なければ日本の恥だ」と追い詰められた。欧州のアンツーカーの輸入を迫られたり、一方でローマより性能の良いアンツーカーが当然できるはずだと脅迫にも似た期待をかけられ、計り知れない重圧に苦しめられたという。

奥氏はその後、東京オリンピックの直前に過労で倒れ、自分で造った会場で観戦することはおろか、二度と立ち上がることもできず、その心労は察するに余りあるものだった。

一般に走りやすいトラックとは、スパイクを打ち込んでも崩れず、その反力で選手を前に推し進めてくれるような、微粒子から粗粒子までが一様に混ざり合った表土であることが業界の常識だった。

土系の舗装材の性能は、粒度分析によって予測できる。これは材料をふるい分けて土やアンツーカーの粒子の大きさと分布を調べるもので、経験を積めばこの分析だけで性能を予測できる。

理屈は単純で、「微粒分が多いと水はけは悪いが、締まりやすいので記録が出る」「粗粒分が多いと水はけは良いが、締まりが悪く記録を出せない」ということだ。

しかし、日本選手に大好評だったローマのアンツーカーのサンプルを分析してみると、砂分が異常に多く(微粒分が少なく、砂粒ほどの粒径が多い)、ちょうど粗目の砂をひとすくいしたような状態だった。言ってみれば砂の上を走るのと同じで、記録が出ないはずなのに、実際には理屈に反してなぜかとても走りやすいトラックだった。

奥氏はこの「ローマの謎」に悩み抜いた。その末に決めた開発の方向性は、結局はローマのことは気にせず、ただ無情なまでに硬いトラックを造るというものだった。

奥氏は、新アンツーカー開発の目標を、「プロクターニードル#1針硬度120ポンド以上」と定めた。「硬度120ポンド以上」とは、靴のかかとを走路に押しつけて1回転しても表面が崩れないほどの硬さで、一般のグラウンドには硬すぎる程度のものだ。

「硬くて高性能」な新アンツーカー

単純に硬くするためには、アンツーカーにセメントを混ぜれば、アスファルトトラック以上に硬くできる。しかし、それでは硬すぎて選手がけがをする恐れがあると同時に、一度崩れるとローラーを掛けても元の硬さに戻らない。締め固めれば何度でも元の硬さと状態に戻せるアンツーカーのメリットが失われる。

それまでのアンツーカーは、1928(昭和3)年にローランギャロスから持ち帰ったものの発展形であり、水はけを良くすることで“雨に強く”していた。同じ理論で、東京オリンピックへの設定目標レベルの硬さまで追い込むことには、そもそも構造的に無理があった。

そこで、新たな視点が必要となった。水浸しになっても硬度が落ちず、「どんなときにも硬くて高性能」という発想で、新アンツーカーを開発した。

奥氏は、オリンピック走路舗装選定のために文部省・建設省・国立競技場・日本陸上競技連盟が構成した試験走路委員会による一般公募に、この新アンツーカーを応募し、見事に選ばれた。1962(昭和37)年6月、国立競技場ホームストレートに長さ50m、6コースの試験走路を設置(図2)。全体の走路は1963(昭和38)年4月に完成した。

図2 ホームストレートに造成した試験走路。ホームスタンド上部からバックスタンド方面を望んだ様子。スタンドは未着工。パノラマ写真ではなく、多くの写真を手で張り合わせたもの(写真:奥アンツーカ提供)

同年10月、オリンピック1年前のプレオリンピック(東京国際スポーツ大会)が開かれ、国際陸上競技連盟の審査を受けて、正式にオリンピック走路として承認された。

次回は、東京オリンピックで実力を発揮したアンツーカーと、その後に出現した技術との世代交代について解説する。(続く)

(日本文理大学特任教授 北岡哲子)

[日経テクノロジーオンライン2016年6月8日の記事を再構成]

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