ハンガリー・コダーイのチェロ、幅広さと奥行きの深さ
ソロの愉しみ(3)
練習する。どんな楽器でも練習をする。人とあわせるときにも、また、ひとりでも。自分の志向する音がだせているか、音楽が奏でられているか、弾きながら耽溺(たんでき)することなく、距離をもって、聴く。聴く人とは違ったひびきであることも意識しながら。
ひとりで練習する様子はあまり人の眼にはふれない。ちょっと前のようには、うちから洩(も)れてくる楽器の音を耳にする機会が減った。ただ楽器の音から、音楽になりかけているもの、瑕(きず)はあっても音楽そのものまで、洩れ聞こえる楽器の音はさまざまだ。
ひとりで練習する、ひたすら集中する姿というと、ほかのではなく、チェロが浮かぶ。宮沢賢治『セロひきのゴーシュ』の、楽器を抱えこむ姿勢のせいだろうか。
縁の下の力持ち
ヨーロッパ音楽には不可欠な低音だが、高い音が奏でるメロディに対し、しばしば縁の下の力持ちのようにみなされた。バッハ《無伴奏チェロ組曲》が、カタルーニャのパブロ・カザルスの手で奏でられるまで長いこと練習曲と信じられたのも、分散和音がつづく冒頭の〈前奏曲〉からすればまんざら責められるべきではないかも。
無伴奏という。一般化しているにしろ、違和感がある。伴奏があってしかるべきとの前提から発想されているようにみえるから。しかし、人はひとりで楽器を手にし、弾く、のではなかったか。逆に、伴奏、との言い方も、もともとは例えばチェロとピアノ、という言い方だし、チェロとピアノと対等に楽曲が書かれているはずなのに、ピアノ、ピアニストを背景に押しやっている感が否めない。これが変わる日はいつなのか。
20世紀に開花
カザルスが表現力を拡大し、レパートリーも増えていったチェロ。広い音域。多様な音色。弦が長い分ピッツィカートの余韻も長いし、ボディを叩(たた)いても豊かな共鳴がのこる。
ハンガリーのコダーイやトルコのサイグン、フランスのデュティユー、アメリカのクラム、日本の黛敏郎から藤倉大と、チェロ独奏曲は20世紀(以降)に開花する。かならずしも楽譜には書かれない即興的な音楽でも、エルンスト・レイスグルや坂本弘道のようなインプロヴァイザーがいて、チェロの幅の広さ、奥ゆきの深さにふれる。
たとえば、チェロ・ソロの20世紀の古典といえるコダーイの《無伴奏チェロ・ソナタ》。ヤーノシュ・シュタルケルがSPで初録音したこの曲と、2度目に録音したおなじ曲を、つづけて、聴く。おなじ曲を、今度は、カサドや黛、ジンザゼといったほかのソロ曲とならべて弾いたエマニュエル・ジラールの演奏で聴く。異なった演奏、異なった時と場所での録音、「ほかの曲」という文脈の違い。おなじ曲でありながら、異なった聴き方、異なった耳のかたむきが、知らず知らずのうちにおこっている。ただひとつの曲の対比・対照・比較ができなくなっているわたしがいる。
弦楽器とはおよそ発音形態も素材も異なっている金管楽器。弦楽器なら、ヴァイオリンでもヴィオラでもソロ作品の定番は見いだしやすいが、金管楽器だとなかなか難しい。そもそも音を大きくする朝顔(ベル)がついていて、外交/外向的なのだから。ましてや派手なひびきを先入観で抱かれるトランペットではなおのこと。
とはいえ、テオ・シャルリエの《超絶技巧練習曲集》のなかにはじつにリリックな、奏者が自らの音にいつしか耳をかたむけるような曲があるし、ミュートを効果的につかいやわらかな音色のコントラストを生む、武満徹《径(みち)》は、貴重な名品として知られる。
近年、この列島ではホルンの新作が充実しつつある。同時代の音楽に共感を抱く名手がいれば、作曲家もインスピレーションを得、新しい曲を書く。池辺晋一郎や藤倉大のソロ曲を吹くホルニスト福川伸陽は、そんな刺激的な演奏家のひとりといえよう。
おなじソロでも、楽器というハードウエアが心身に課してくるものは、小さくはない。だが、その違いのうえで対比させ、発見できることも、きっと、ある。
(音楽・文芸批評家 小沼純一)
[日本経済新聞夕刊2016年7月20日付]
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