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カリスマの直言

日銀に米国発「物価異変」のリスク(加藤出) 東短リサーチ社長チーフエコノミスト

2016/7/11

「米国出張で間近にしたのは日本以上にモノの値下がりが激しい現実。それは日銀の金融政策にも影響を及ぼしかねない」

7月初めにかけて1週間程度、出張で米国に行った。そこで間近にしたのは米国では日本以上にモノの値下がりが激しいというちょっと驚きの現実だった。ましてや賃金上昇ペースが遅い日本がインフレ率を政府・日銀の目標である2%へと短期間に押し上げるのは極めて困難であろう。インフレ目標の見直しは待ったなしだが、円高の進行をいかに避けながらそれを行うかが今後の大きな課題といえる。

ニューヨーク5番街にある最高級デパートの「サックス」。同社はそこから徒歩10数分の場所に「サックス・オフ・フィフス」というディスカウント店を開いていた。高級デパートの「ノードストローム」も「ノードストローム・ラック」という大幅値引き店をあちこちで展開していた。日本の老舗デパートは国内でそういった値引き戦略を行っていないが、電子商取引(EC)の攻勢が強まれば、いずれそうなる可能性がある。

消費者物価指数(CPI)は財(モノ)とサービスに分けることができる。図表1は日米の5月の財のCPIの前年比インフレ率だ。テレビ(1)は米国がマイナス17.5%、日本はプラス5.2%である。実際、米国の家電量販店や大手スーパーでは、テレビは長い間猛烈な勢いで値下げされ続けている。55インチの欧州や韓国ブランドの4Kタイプは、日本円換算(1ドル=102円)で、5.1万円や7.6万円で売られていた。日本の量販店でそんなに安い機種はまず見かけない。

65インチの日本の有名ブランドの4Kタイプは11.2万円で売られていた。日本では似た機種の60インチが20万円台後半だ。

パソコン(3)や電話機(4)も米国の方が価格下落が激しい。そういった耐久消費財のインフレ率が米国より日本の方が高くなっているのは、

A)昨年までの円安の余韻が仕入れ価格に影響している

B)米国市場では世界中のメーカーがしのぎを削って価格競争している

C)米国ではECと従来型量販店との間の値引き競争が激烈(戦いに敗れて倒産した量販店も多数ある)――といった点に原因があると考えられる。

洋服(7)(8)も米国より日本の方がインフレ率が高い。これも上述のAとCの要因が効いている。特に米国におけるECの販売シェアはアパレルにおいても急速に高くなっており、「デパートやショッピング・モールに服を買いに行くことはほとんどなくなった」という声を多くの人から聞いた。このため、デパートは対抗上、激しい値下げ競争に参戦せざるを得なくなっている。

米国の小売業の今年第1四半期(1~3月期)の業績(前年比)を見ると、デパートの「メイシーズ」は純利益が39.9%減となった。しかし、猛烈な値引き販売で消費者の人気を得ているチェーン店「T・J・MAXX」を傘下に持つ「TJX」の純利益は7.1%増である。

猛烈な値引きで知られるTJXの店舗。奥にニューヨーク証券取引所が見える

米国のスポーツ用品の大手量販店「スポーツオーソリティ」はECとの値下げ競争の影響などで倒産した。事業を継承する企業が現れなかったため、清算が先日決定された。

現在、米国では多くの小売関連企業の経営者が「販売価格を上げるのは難しい」と嘆いている。ナイキのスニーカーのように、強いブランド力を持つ一部の商品は値下げ競争を回避できているが、多くの財の価格は米国ではデフレの状況にある。

日銀が2013年4月に「異次元緩和」を開始して以来、円安のチャネルを通じて日本の財のインフレ率は上昇を示していた。しかし、今年に入ってからの円高により、財のインフレ率は顕著な縮小を見せている。日本の5月のテレビ(1)は前述のようにプラス5.2%だが、昨年11月はプラス22.3%だった。

英国の欧州連合(EU)離脱問題を中心とするグローバル経済の不安で円相場は強含んでいる。主要通貨に対する円の総合的な実力を示す名目実効為替レートは、最近は13年第1四半期(1~3月期)、つまり異次元緩和導入前の水準にすっかり戻ってしまった(図表2)。この影響で、今後、日本の財(モノ)のインフレ率はさらに減速していくだろう。それに加え、日本でも米国のようにECが仕掛ける値引き競争が遠からず激しくなってくるとみられる。

財の価格上昇を中心に日銀がインフレ2%を実現するのは(原油相場が急騰するといった“神風”でも吹かない限り)極めて難しい。となると、インフレ目標の達成にはもうひとつのサービスの価格上昇が重要となってくる(サービスがしっかりと値上げされれば、米国のように財がデフレであっても、全体はデフレにならない)。

しかしながら、これも容易ではない。図表3にあるように、鉄道運賃(17)や上下水道、(18)のような公共料金、保育所保育料(20)、大学授業料(21)、病院サービス(22)といった制度に規定される料金、または(23)(24)の家賃関連は、米国では顕著に値上りしている。一方、日本の上昇率は低い(それは生活者にとっては悪い話ではないが、日銀にとっては困った問題である)。

それらの価格は日銀が大胆な緩和策を実施したからといって、敏感に上昇する品目ではない。早期に日本の全体のインフレ率を2%へ持ち上げるには、(13)~(16)のような一般サービスの価格を大幅に上昇させる必要がある。それには日本の賃金が米国よりも急激なスピードで上昇しなければならないが、それはどう考えても不可能だろう。

このように見てくると、日銀の約束はかなり無理を伴っていることが分かる。しかも日銀には追加緩和の余地があまりない。しかし黒田総裁は、躊躇(ちゅうちょ)なく追加緩和を行ってインフレ目標を早期に達成すると言い続けているため、それがかえって市場の攻撃を招いてしまっている。多くの日銀関係者は、現在それを痛感しているだろう。インフレ目標の在り方を見直す時期が来ている。

先週米国で発表された雇用統計を含む経済指標は、今年第2四半期(4~6月期)の米国経済が堅調であったことを示していた。しかし、米連邦準備理事会(FRB)は英EU離脱問題の影響を見極めようとして、しばらく利上げを見送り続けるだろう。日銀はFRBが利上げに再び積極的になって円高圧力が和らぐタイミングを狙って、海外の多くの中央銀行のようにインフレ目標の達成時期を中長期化したり、あるいは例外条項を設けたり、柔軟化を図るべきと思われる。

日銀にとっては厄介なもうひとつのリスクもある。米国で財の価格下落が人々のインフレ予想を押し下げるシナリオだ。実はイエレンFRB議長は先月の講演で、長期インフレ予想の低下を警戒する発言を行っている。そうした場合、FRBの利上げスケジュールが一段と後ズレする可能性が否定できない。円高要因になるので、頭が痛い問題だ。

今の日本経済にとって本質的に重要なのは、人口減少などに伴う構造問題に中長期的な視点で取り組んで、潜在成長率を引き上げて行くことにあると考えられる。それは日銀の金融政策で対処できる問題ではないだけに、参院選後に政府が改革に踏み込んでいくことが期待される。

加藤 出(かとう・いずる) 1965年生まれ。88年3月横浜国立大学経済学部卒、同年4月東京短資(株)入社。短期市場のブローカーとエコノミストを兼務後、2002年2月に東短リサーチ(株)取締役、13年2月より現職。マーケットの現場の視点から日銀、FRB、ECB、中国人民銀行などの金融政策を分析している。07~09年度に東京理科大学、中央大学で非常勤講師。主な著書に「日銀は死んだのか?」(日本経済新聞社、01年)、「バーナンキのFRB」(ダイヤモンド社、共著、06年)、「東京マネー・マーケット」(有斐閣、共著、02年、09年)、「日銀、『出口』なし!」(朝日新聞出版、14年)など。

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