M・フェルドマン、声のみ静かに広がる時空
ソロの愉しみ(1)
《only》、1分ほどの声の曲である。声のみ。ほかの楽器はない。テクストはライナー・マリア・リルケ、詩集『オルフェウスへのソネット』から。20世紀アメリカの作曲家、モートン・フェルドマンの。
楽譜には、低めの女声を想定し、メゾ・ピアノとある以外、表情記号もない。派手さなど皆無で、ともすれば、口ずさみのよう。だが、短いあいだではあるけれど、英語で発音されたテクストと音の高さとうつりゆき、息のながさと、ところどころにおかれた休止が、耳をすませた人には、何かを伝える。仰々しい表現ではなく、あってもなくてもわからないかもしれないけれども、「ない(ヽヽ)」こととはあきらかに異なった時空のありようを、伝える。
第2次世界大戦が終わって数年、フェルドマンとほぼおなじ頃、海を隔てたこの列島で、声だけの作品が書かれている。早坂文雄《春夫の詩に拠る四つの無伴奏の歌》。よく知られる〈うぐいす〉は、ときに音のうごきは大きく飛躍しながら、しかし淡々とした静けさをたたえる。
概念を問い直す
声がただそれだけでなりたつ曲は少ない。少なかった。特にヨーロッパ由来の「クラシック」に類する音楽では。ところが20世紀も半ばをすぎると、ジョン・ケージ(《アリア》《ソング・ブックス》)、ルチアーノ・ベリオ(《セクエンツァ3》)、ジャチント・シェルシ(《Ho》)、ジョルジュ・アペルギス(《レシタシオン》)といった作曲家たちの作品が生まれてくる。うたというより、ことばや声そのものの音、身体のパフォーマンスに重心がおかれ、積極的に旧来の音楽の概念が問いなおされることになるのだけれど。
大勢で演奏されるオペラやオーケストラの作品のなかでも、何の介添えもなく、声だけが1語や2語、1フレーズがとびだしてくる。その印象はつよい。松村禎三《沈黙》でも、三善晃《遠い帆》でも、ともに、瞬間、オーケストラもコーラスも黙して、たったひとつの声だけが短くひびく。あるいは、そう、コンサートでもっともつよく届くのは、アンコールで披露される、よく知られるメロディを、何も伴わず、歌われるソロであったりしないか。
ギターのように、ひとりで奏でながらも、上半身が楽器を包みこむかたちになる楽器がある。しかもいくつもの音を同時にならすことができる。複数のメロディをからみあわせることもできる。声とギターが、いや、もっと広くとらえて絃(げん)をはじく楽器と声が、古くから、洋の東西を問わずあるのは、偶然ではないのかもしれない。ジョン・ダウランド《流れよわが涙》でも、平曲でも、フォークソングでもいい。
自由、責任も伴う
ソロとは独唱・独奏と訳されるが、ひとりの、孤独の謂(いい)だ。たったひとりで歌う、たったひとりで奏でるとは、奏でるものがすべてを負っている。ピッチもテンポもニュアンスも、自分で決める。自由であるとともに責任もすべて引き受ける。ひとりである不安定さ、よるべなさもある。ひとつ、ひとりではまだ世界とはいえない。何かが欠けている。他者が、対話があってこそ、広がりはある、と。だが、むしろこの不安定、不充足ゆえの力をみることもできないか。そこから発して、他者たちとのアンサンブルをとおって、あらためてひとりに戻ってくるような、つまりは人が生まれ、この世を去っていくのがひとりであるのとおなじような。
(音楽・文芸批評家 小沼純一)
〔日本経済新聞夕刊2016年7月6日付〕
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。