円が急騰したのは、英国民投票の結果が判明した6月24日の外国為替市場。主要通貨に対して軒並み円が買われた(グラフA)。英国と大陸欧州が分断され、反地域統合の動きは世界に拡大。グローバル経済に負のインパクトを及ぼす。そんな暗い未来を思い描き不安におびえた投資家が、マネーを一気に円に移したとされる。
市場心理の悪化が円高を招く光景はこれまでも見られてきた。2008年9月のリーマン・ショックや11年3月の東日本大震災のときなどだ(グラフB)。「安全通貨」がマーケットでの円の通称になっている。
奇妙な現象のようにもみえる。日本経済はデフレに苦しみ、労働人口減少や設備老朽化といった構造問題も抱える。財政赤字も巨額だ。日本経済の実力を示す潜在成長率はわずか0.2%程度(日銀推計)に低下、2%程度ともいわれる米国との差は大きい。なのになぜ円は「安全」か。
デフレで円高に
重要なのは「国力と為替相場の関係は希薄」(JPモルガン・チェース銀行の佐々木融氏)とされる点だ。経済が混乱すると通貨が売られるケースもあるが、逆に成長力が弱い国の通貨の方が強くなることもあり得る。理由として、ここでは2つのポイントを挙げておこう。
まず物価と為替相場の関係だ。モノやサービスの価格が持続的に下がるデフレのもとでは、通貨の価値(購買力)は逆に上がる。より少ないお金でモノやサービスを買えるようになるからだ。そして、一般的に購買力が上がる通貨を持つ方が得だから、為替相場も上がりやすい。
日本がデフレに陥ったのは18年も前である。黒田東彦日銀総裁のもとで13年4月に始まった量的・質的緩和政策によって、いったん物価上昇に弾みが付いたものの、原油安や消費の伸び悩みなどの影響で失速している。直近の5月の消費者物価上昇率(総合)は前年同月比0.4%下落。米国の5月の消費者物価上昇率(1.0%上昇)と比べると、デフレ傾向が強い。
不安なときは購買力が下がりにくい円を買っておこう。そんな心理が働いても不思議はない。「デフレ通貨なのに円がマネーの逃げ場になる」のではなく、「デフレ通貨だからこそ円が逃避先になる」という面があるのだ。
次に金利と為替相場との関係に話を移す。
日本のように成長力が弱い国の金利は一般的に低い。経済を刺激するため、中央銀行が思い切って金融を緩和するからだ。日銀がゼロ金利政策を導入したのは今から17年も前。以降、ゼロ金利を解除する局面が2度あったものの、再び超低金利状態に戻って現在に至っている。今やマイナス金利政策のもとで長期金利(10年物国債の利回り)はマイナス0.2%台。米国やドイツを下回っている。
「キャリー」影響
超低金利の通貨は売られやすいというのが普通の理解だろう。金利面の魅力が低いからだ。実際、投資家がリスクをとることに積極的になる局面では、投機筋の間で超低金利通貨の円を借りて、金利は高いが相場変動リスクも大きい通貨を買うキャリー取引が活発になりやすいと言われる。低い金利の通貨が売られる教科書通りの展開だ。
だが、市場の混乱時にはむしろ超低金利通貨の方が買われやすくなる。不安になった投機筋がキャリー取引を一気に手じまうからだ。その過程で大幅に円が買い戻されるので円が急騰する(図C)。
キャリー取引がどの程度本格的に交わされているのかについては様々な見方があり、実態は不明だ。ただ、以上のメカニズムが働くという理解のもとに、リスクが高まると条件反射的に円が買われるのも事実だ。
ちなみに、日本が世界最大規模の対外純資産(企業、政府、個人などが海外に持つ資産残高から負債残高を引いた値、15年末で約339兆円)を抱える点も、円が「逃避先」になりやすい理由だ。経済にショックが加わると、日本人が海外に持つ外貨建て資産を売って引き揚げるとの思惑が広がるからだ。
もちろん、「投資家がリスク回避的になると買われる円の性質が、未来永劫(えいごう)変わらないとは限らない」(三菱UFJモルガン・スタンレー証券の植野大作氏)。財政状況悪化などを背景に日本で高インフレが進む事態になれば、円はマネーの逃げ場にはなりにくくなる。ただデフレで超低金利という状態が続くなら、市場混乱時に円高が進む現象はなくならないかもしれない。
何らかのショックで投資家がリスク回避的になる時には、経済や市場に既に悪影響が及んでいることが多い。日本ではそのうえ円高も進み輸出面などで景気の足を引っ張る。二重の打撃が加わるのだからやっかいだ。
英投票結果が伝わった6月24日の株価下落率を見ても、日本は英国やドイツ、米国より大きかった。円高でショックが増幅される「弱り目にたたり目」の展開。それが今後も繰り返される恐れがある。日本経済の難題といえる。
(編集委員 清水功哉)
[日本経済新聞朝刊2016年7月6日付]