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創業450年の寝具大手、西川産業(東京・中央)を変えたのは38歳で社長に就任した銀行マンの婿養子、西川八一行氏(48)だ。年配層に認知されていた西川産業を、「睡眠」のソリューション企業に変え、アスリートに支持される「AiR(エアー)」を生み新たなブランドとして復活を遂げた。変革のヒントは「歴史が教えてくれた」という。ベンチャー経営者とは違う改革手法を2回にわたって紹介する。

従来のやり方変えられない

――住友銀行(現三井住友銀行)に勤める銀行マンだった西川さんが、西川産業に入社して、なぜこの会社を変えなければと考えたのですか。

「実際のところは会社の製品をカタログで見た程度の、新入社員と変わらないような知識だけで入社したのですが、来てみるといろいろ大変なことがわかりました。よかった点は、技術的な部分です。製品のクオリティーを追求する姿勢、ものづくりへの情熱などは『そこまでしなくても……』と思うほどでした。問題は消費者に商品を届けることに対する無関心です。当時はバーバリーやセリーヌなど、他社のブランド名をつけて販売するライセンスビジネスに頼っていました。我々は他社ブランドの名前をつけた商品を百貨店に納め、百貨店はその商品をバーバリーとして売る、OEM型(相手先ブランドによる生産)だったんです」

――西川のブランドは出ないんですね。

西川産業社長 西川八一行氏

「ほとんど出ません。しかもコストをはじめとする主導権は当然ライセンスを供給する側にあり、それに隷属するより仕方ない、という雰囲気になっていました。結果として商品を百貨店に納めれば卸売りとしての数字ができあがるのだから、あとは知らない。別ブランドとしてのイメージで伝わるのだから、消費者にどう届けるかも関係ないし、自分たちの仕事ではないと考えていたんです」

「それでは、消費者と遠くなってしまいます。たまたま私は銀行で働き、ニューヨークの勤務経験や、取得こそしていませんが経営学修士号(MBA)の勉強もしていました。マーケットを中心にものを考えることを当然だと思っていたのです。この会社に来てみたら、完全にお客様の視点を持たない生産者側の都合だけを見たプロダクトアウトの視点になっていました」

バブル崩壊とともに、危機的な業績に

――当時、業績も悪かったんですか。

「私が入社した1995年は、バブルも崩壊し、業績もちょうど真っ逆さまに落ちる瀬戸際のタイミングでした。ライセンスビジネスそのものが厳しくなり、条件が合わず、事業赤字になるから辞めざるをえないブランドも出てきました。大型ブランドを1つ失うだけで、一度に何十億円という売り上げが落ちてしまう。百貨店の市場も、十何兆あった売り上げが半分になりました。百貨店からの売り上げが大半でしたから、我々も一緒に売り上げが落ちるんです」

「そこからどうするか。私はもっと消費者に近づき、どんな商品を作るか考えるべきだと思っていた。ところが、大半の人はライセンスをもっと増やすといった従来の考え方でした。私は、自社の価値を伝えようとしていないこと、他者のブランド力に頼ろうとしていることが一番まずいと思った。自分たちは卸売りだとみんながはっきり認識している。それでは、これからの時代は厳しい、と強く感じていたんです」

経営学は逆効果 近江のルーツに学ぶ

――西川さんがいくら変えなければと思っても、老舗ですし、古参の幹部がいますよね。彼らを変えるのは大変でしょう。

「大変でした。入社してから社長になるまで10年ありますが、これは私の手に負えない、と思ったことも何度もあります。間違ったところにきちゃったなと。(古参の社員の)マインドセットを変えなければいけない、と最初のうちは正論を吐いたり、(経営学の)本を持ってきたりしましたが、ほぼ逆効果でした。想像できると思いますが、『実商売もわからないくせに』と強い反発をくらいました。何をやっても『かぶれている』と言われてしまう状態です」

――どうやって従業員の意識を変えたのですか。

「当時の会長に呼ばれて私が社長に就任すると決まりましたが、業績も悪く大改革しなければなりませんでした。しかし、当時私は38歳で、会議をやれば私が一番年下のうえ、すでに色眼鏡がついています。いろいろ考えて実行したことが、私たちのルーツを改めて学ぶことでした。我々の本家は滋賀県の近江八幡にあります。私たちは今苦しい状況だが、何百年もの歴史でもいろいろな問題があったはずだと思い、近江八幡に行くと各代の人間が悩んだ課題がきちんと残されていました」

「私は15代目なのですが、参考にしたのは7代目の利助です。江戸時代の中後期ですかね。ちょうど老中が積極財政の田沼意次、急激な緊縮財政の松平定信の時代に当主を務めていた。積極財政だった田沼時代は、新興商人が力を持ち始め、旧来の商人が没落しバタバタと潰れていったそうです。このままでは我々もなんともならんと、7代目がもう一度過去の資料を読み直し、創業以来の史料を編さんしました」

「その時に、日本で初めてのボーナス制度である『三ツ割銀』という制度を作りました。年に2回の決算を終えたとき、純利益の3分の1を従業員に分配し、従業員のモチベーションを上げるしくみです。そもそも、当時は従業員にいくらもうかっているか公開していなかったはずです。雇用される側はもらえるものがすべて、という考え方が大半のなかで、画期的なしくみだったと思います。ほかにも『品質を重視する』『お客様に迷惑がかからないようにしなさい』『法令法規を守りなさい』というようなルールがきちんと残されていました」

本来、行商だった

「もう一つ私たちがなるほどと思ったのは、初代の仁右衛門です。蚊帳や生活用品の行商をしていた初代は、豊臣秀吉の甥(おい)で跡継ぎだった秀次が近江八幡山城を築城したことで将来の発展を見越し、近江八幡で店を開きました。ところが実子の秀頼が生まれ、秀次は謀反を起こし、城も壊され町はダメになってしまった。そこで、近江商人は外の町に出て行ったのです」

「初代は『我々は常によそものなので、行った先々の地域で愛され必要とされなければならない、お邪魔させていただくという姿勢でいなさい』と書き残しています。やがて、(徳川幕府の時代になり、)当時の人からすればこの先どうなるかもわからない江戸で商売を始めることになります」

「つまり、歴史をひもとくと、私たちは本来行商で、卸売業は数百年の歴史の中でもごくわずかなのです。『卸売りだ、消費者とは関係ない』というのは違う。私たちは本来、お客様に直接商品を売り歩くくらいのことをしなければならない。そういっているのは、当時38歳の若造でもなく、海外の有名な経済学者でもなくて、我々のルーツの中にあるご先祖様です、と伝えることができたのです。この文献が数百年にわたって残されていることこそ、先祖が意味あることだと思っていた証拠だと思います。これでだいぶ経営幹部の意識が変わりました」

「変えてはいけないものと、変えなければならないもの」

――先祖を活用して、会社の社員の意識を変えたわけですか。

「私たちの会社にはもともと『誠実』『親切』『共栄』という社是がありましたが、誰も記憶していない状況でした。この言葉を私のときに今風にかみ砕き、誰のために働くのか、というポイントも付け加えました。月に一度の朝礼でいつも、読み上げています。決断に迷った時に戻れる言葉として、普段はカードにして社員に持ってもらっています。私自身、西洋的な学問を勉強しましたが、米国建国よりも前からあった、自分たちのルーツである西川家四百数十年の中に残っているものをみんなで考えていきたい」

「変えてはいけないものと、変えなければならない者があるんです。変えてはいけないものは経営理念や考え方で、変えなければならないものはその手段です。当時は考えられなかったインターネットやスマートフォン(スマホ)に対応しなければならない。この二面性を私は出していく、と宣言したのです」

西川八一行氏(にしかわ・やすゆき)
1967年生まれ。早大法学部卒、住友銀行(現三井住友銀行)入行。赤坂支店、ニューヨーク支店などを経て、国際統括部で国際広報や国際支店設立などの業務を担当。婿養子として西川家に。95年西川産業に入社。2006年、38歳で社長に就任。

(代慶達也 松本千恵)

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