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イランからの石油を積み、川崎油槽所に接岸した日章丸(1953年)

イランからの石油を積み、川崎油槽所に接岸した日章丸(1953年)

国際的な石油カルテルに抗し、幾多の苦難を乗り越えて最大の民族系石油会社、出光興産を築いた。出光佐三が残した足跡である。その反骨は、英国艦隊のイラン封鎖をかいくぐって石油輸入を断行する「日章丸事件」を引き起こし、世界を驚かせた。業界の暴れん坊ともみられたが、人間尊重の大家族主義の経営を追求、消費者本位の信念を貫いた。経営と道徳のはざまに生きた生涯であった。=敬称略
 (編集委員 井本省吾)

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「アバダンに行け」。1953年(昭和28年)4月5日。インド洋を航海中の出光興産のタンカー日章丸に、本社から暗号無電が届いた。緊張が走る。

 ◇乗組員に檄文

「ついに来たか」。産油国イランのアバダン港へ、石油を積みに行けという指令である。船長は乗組員を集め、あらかじめ預かっていた社長、出光佐三の檄(げき)文を読み上げた。

「今や日章丸は最も意義ある尊き第三の矢として弦を離れたのである……ここにわが国ははじめて世界石油大資源と直結したる確固不動の石油国策確立の基礎を射止めるのである」

「各自、この趣旨をよく理解して、使命の達成に全力を尽くされたい」。船長がこう告げると、極秘行動のため、それまで出航の本当の目的を知らされていなかった乗組員は、奮い立った。一斉に声が上がる。

「日章丸万歳! 出光興産万歳! 日本万歳!」

出光佐三氏

出光佐三氏

戦後の日本の石油産業は米英を主軸にした国際石油資本、メジャーの支配下にあった。大半の国内石油会社は経営を成り立たせるため、メジャーとの結びつきを余儀なくされる。そして日本市場には、高価で品質の劣る石油製品が、大量に出回っていた。

しかし、出光は自社の独立を脅かす一切の妥協を拒む。そのため、石油カルテルから排除され、孤立無援。四面楚歌(そか)の中を自前の日章丸を駆って、米国から品質が良く、安いガソリンを輸入し、ユーザーからの支持を集めた。

当初は西海岸のロサンゼルスからの輸入だ。第一の矢である。それをメジャーに阻まれると、第二の矢を放つ。パナマ運河を越え、メキシコ湾岸やベネズエラから輸入するという離れ業でしのいだ。だが、そこにもメジャーの手が回る。

活路を求めた佐三が考えた「第三の矢」、それがイラン石油の輸入だった。当時イランはモサデク首相のもと、石油国有化政策を推進、英メジャー、アングロ・イラニアン石油(現ブリティッシュ・ペトロリアム)の接収を進めていた。

英国は「利権契約に反する」とこれに抗議し、艦隊を中東に派遣して威圧した。経済制裁にも打って出る。モサデク政権は窮乏するイラン経済を回復するため、石油の販売先を求めた。が、メジャーと英政府を敵に回して、タンカーをイランに向ける石油会社など、望むべくもない。

イタリアの船がイラン石油を買い付けたことはあった。しかし、石油を積んだ帰りに英国海軍にだ捕されてしまう。イラン石油の輸入は困難が予想された。

 ◇極秘の協定

佐三は慎重に情報を集め、機が熟すると見るや極秘にイランと輸入協定を結ぶ。そこで仕掛けた"奇襲"がアバダン行きだった。

日章丸は世界注視の中をアバダンに入港、石油を満載する。帰路はシンガポールに基地を置く英国軍の監視を考えてマラッカ海峡を避けた。水深が浅くて危険なジャワ海を通るなど苦闘の航海を乗り切り、イラン石油の輸入に成功した。

アングロ・イラニアン石油は、日章丸が積んだ石油の処分禁止を求める仮処分を東京地裁、同高裁に提訴するが、出光は勝訴。石油輸入時の記者会見で、佐三はこう言い放った。

「一出光のためという、ちっぽけな目的のために五十余名の乗組員の命と日章丸を危険にさらしたのではない。国際カルテルの支配を跳ね返し、消費者に安い石油を提供するためだ」

【出光佐三氏の足跡】
 1885年 8月、福岡県宗像郡の藍(あい)問屋の二男として誕生
 1909年 神戸高商(現神戸大学)卒、貿易商の酒井商会に入店
 11年 北九州の門司で石油販売業の出光商会を創業
 14年 南満州鉄道に機械油納入
 19年 中国・青島に支店、中国に本格進出
 20年 朝鮮半島の販路開拓
 22年 台湾に販路開拓
 37年 貴族院議員に選任される。47年まで在任
 40年 出光興産設立
 45年 海外店閉鎖、引き揚げ開始
 46年 旧海軍タンク底油回収作業
 47年 石油業に復帰、出光商会と出光興産が合併
 49年 元売り会社の指定を受ける
 51年 自社タンカー、日章丸二世就航
 52年 ガソリンを米国から輸入、「アポロ」の商標で発売
 53年 イラン石油を輸入(日章丸事件)
 57年 徳山製油所(山口県)が完成
 59年 ソ連石油を初輸入
 63年 石油連盟を脱退(66年に復帰)
 66年 弟の出光計助副社長を社長とし、自身は会長に就任。世界初の20万トン級タンカー、出光丸就航
 72年 会長を退き、店主に専任
 81年 3月7日、急性心不全のため死去、95歳

この言葉に、石油事業にかける佐三の思いが凝縮されている。軍の統制や国際メジャーのカルテル、国内業者の談合など、様々な規制や独占との戦いに身を置いてきた、との感慨もあっただろう。

話は戦前にさかのぼる。メジャーが支配する中国大陸に、安値を武器に強固なくさびを打ち込んで市場を確保。軍の統制が厳しくなってからは、軍部に食い込んで利権を得ようとする同業者の組織にも抗した。

陸軍からにらまれ、石油タンクに砂や石を入れられたこともある。戦時中は統制により国内事業の大半を取り上げられもした。

終戦で主力の海外事業を失った出光は戦後、国内事業の再開を求める。だが、GHQ(連合国軍総司令部)の管理下にあった石油配給統制会社の幹部たちが、これを阻んだ。出光の実力を知る彼らは「一匹オオカミ」の復活を恐れたのだ。

孤立無援の中、旧海軍のタンク底に残る石油回収作業を引き受けるなど実績を積み、GHQの信頼を得て、石油配給業に復帰する。49年(昭和24年)には同業者の有形無形の妨害をはねのけ、元売り会社の指定を果たした。

その後も規制や業界の圧力にあらがい続けた。自前のタンカーでガソリンや軽油の輸入を実現。イラン石油がメジャー連合の手に落ちた後は、山口県に徳山製油所を建設して精製部門へ進出した。ソ連からの原油輸入で外資系石油会社の度肝を抜いたこともある。

62年(昭和37年)、石油の生産調整を図る石油業法が成立した時も行動は大胆だった。「石油価格の高値安定を狙うものだ」と猛反対、63年に業界団体の石油連盟を脱退する。

 ◇消費者の利益

無法者、一匹オオカミ、横紙破り、海賊……。張られたレッテルは数知れない。それは消費者不在のカルテルに加わらぬがゆえの誹謗(ひぼう)中傷だった。佐三は消費者利益の増進を使命と考え、生産者と消費者を直結する「大地域小売業」の旗のもと、世界を舞台に事業を進めたのだ。

「民族資本、民族経営」を掲げた。だが、閉鎖的なナショナリズムとは無縁で、広い視野と人間尊重の経営は内外で幅広い共感を呼んだ。福岡県・門司の石油商に過ぎなかった出光商会を、「世界のイデミツ」に押し上げた原動力はそこにあった。

1999年7月11日付日本経済新聞朝刊掲載の「20世紀日本の経済人 奔流編(28)」を再掲した2014年2月6日の日経Bizアカデミーの記事を再構成したものです。

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