ナチスによる原爆開発はこうして阻止された
1943年2月27日深夜、ナチス支配下にあったノルウェーの重水工場爆破任務を負った9人の破壊工作員が、夜の闇にまぎれて険しい崖をよじ登っていた。
カーク・ダグラス主演のアクション映画『テレマークの要塞』(1965年)は、この実話が基になっている。しかし、実際に起こったことはハリウッド映画よりもはるかに複雑で、はるかに壮絶なものだった。
米国の作家ニール・バスコム氏の最新著書『The Winter Fortress: The Epic Mission To Sabotage Hitler's Atomic Bomb (冬の要塞:ヒトラーの原爆を破壊せよ)』は、これまでほとんど日の目を見ることのなかったノルウェーの記録や目撃者の証言、現地の取材を通して、ドイツ軍と連合軍による核開発競争の中、いかに決死の破壊作戦が遂行されたかを物語っている。米国シアトルにある著者の自宅で話を聞いた。
―― 著書の中で、第2次世界大戦中の連合国指導者たちは、ヴェモルクの重水工場が「勝敗を分かつ微妙なラインにある」と見なしていたと書かれていますが、まずヴェモルクとは地図の上でどのあたりに位置しているのでしょうか。それがなぜ重要だったのですか。
ヴェモルクは、ノルウェーの首都オスロから西へ約160キロ行った所にあります。氷に覆われた断崖絶壁の突端に建てられた工場は、ドイツの原爆開発計画に必要な重水(同位体の水分子を含んだ通常より重い水)を世界で唯一製造する工場でした。ドイツは、原子炉を建造するために重水を必要とし、そこからプルトニウムを、そして原子爆弾を作ろうとしていました。
連合軍には、ドイツの研究がどこまで進んでいたのかは分かりませんでしたが、ナチスドイツが重水に大きな関心を示しているという情報だけはつかんでいました。そこで、この場所を攻撃することに決めたのです。
―― 第2次世界大戦の開戦直後から、核兵器開発への競争は始まっていました。この研究に関わっていたのはどのような人々でしたか。
核分裂が発見されたのが1938年のことです。第2次世界大戦が始まって間もなく、連合軍は核分裂の威力を発電に利用するべきか、それとも核兵器開発に注ぐべきかを検討していました。アインシュタインをはじめドイツから亡命した物理学者たちは、1940年には研究を開始し、原料を集めて原子爆弾の可能性を追求していました。
一方ドイツでも、全く同じことが起こっていたのです。ドイツ人物理学者のクルト・ディーブナーが陣頭指揮を執り、物理学者たちを招集しました。その中のひとり、ノーベル賞受賞者のヴェルナー・ハイゼンベルクは基礎的な研究に取り組み、重水を調達して連合国と同じように原子炉と原爆の製造法を模索していました。1942年までには、どの国もほぼ同じ位置に立っていたのです。
―― 今回の著書の主人公リーフ・トロンスタッドはノルウェー人で、「ザ・メールマン」と言うコードネームを持っていました。彼について詳しく教えてください。
トロンスタッドは当時38歳、ノルウェー、トロンダイム大学の化学教授で、ヴェモルクの重水工場を発案した人物です。1940年にドイツがノルウェーへ侵攻し、ヴェモルクを占拠しました。ドイツとの戦いにはトロンスタッドも加わりましたが、ノルウェーが敗れると、トロンダイムでの教職へ戻りました。同時期に、ドイツが重水に興味を示しているとの情報を密かに連合軍へ提供していました。
しかし数カ月後には、ノルウェーから逃げた方が良いと気づき、家族を残してイングランドへ渡ります。私が彼にひかれたのは、優れた頭脳を持つ優れた科学者でありながら、当時はパラシュートでノルウェーへ戻ってドイツ軍と戦うことだけを考えていたという点です。
―― ヴェモルクは町から遠く離れたへき地にありますが、その地形や環境は破壊工作にどのような影響を与えたのでしょうか。
ヴェモルクは、自然の要塞と言えます。ここへたどり着く道は1本のつり橋のみ。周囲を取り巻くハルダンゲル高原は極寒の地で、時には気温が急激に下降して炎でさえ凍り付くと言われるほどです。
地雷やサーチライト、有刺鉄線が張られた高いフェンスで防御され、常に警備隊が配備されています。工作部隊は1942年10月にパラシュートで近くに降り立ち、作戦の準備と情報収集を行いました。冬の間、岩と雪、風以外何もないマイナス数十度の高原で、自力で生存しなければなりませんでした。食料も少ないので、トナカイを捕らえて食べていました。移動手段はスキーのみ。隊員は皆スキーを履いたまま生まれてきたようなノルウェー人だったのが幸いでした。
―― 数カ月の準備の後、工作隊はついに作戦を決行します。工場を爆破させるため、まずは険しい崖を登らなければならなかったんですよね。
1943年2月27~28日、ガナーサイド作戦の準備は整いました。9人から成る工作部隊のリーダーは23歳のヨアキム・ロネンベルクという青年でした。この作戦のために英国の特殊作戦執行部(SOE)で訓練を受けたほかは、まったく軍隊経験はありません。
最初に考えるべきは、どうやって工場へ接近するかでした。選択肢は3つ。工場の裏の山から下りてくる。しかしここは地雷がいたるところに埋められています。次に、つり橋を渡る。ここには警備隊が常に厳しい目を光らせています。最後の選択肢は、谷底へ降りて半分凍り付いた川を渡り、150メートルの崖をよじ登ること。彼らは、真冬の真夜中に崖を登ることを選択しました。
トロンスタッドの周到な計画と諜報活動のおかげで、工作隊は工場の全ての建物、階段、入り口を知り尽くしていました。その結果、警備の目をくぐり抜けて工場へ潜入し、爆弾を仕掛け、爆破に成功したのです。ドイツ軍のノルウェー駐留司令官ファルケンホルストは後に、この出来事を「見事な戦略」と語っていたそうです。(参考記事:「ヒトラーが最後の日々を過ごした地下壕」)
―― ヴェモルク工場の破壊作戦自体が無駄なものだったと指摘する歴史家もいるそうですが、あなたはその意見には反対なのですね。
もちろん反対です。理由はふたつあります。まず連合軍には、ドイツが原爆を開発していたかどうかを知る由もありませんでしたが、重水にただならぬ興味を示していたということは分かっていました。潜在的脅威がある以上、何としても阻止する必要がありました。
後に分かったことですが、1942年初夏にドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアは、マンハッタン計画のような核開発に投資をしないという決断を下していました。その一方で、核開発プログラムの責任者だったクルト・ディーブナーは上官から「重水炉を稼働させろ。それが可能だと我々に証明できれば、莫大な報奨金を与える」と、はっきり告げられたと言います。
そこでディーブナーは、あらゆる手を尽くして原子炉を作るのに十分な重水を手に入れ、プログラムを再開させようとしていました。彼らが原爆製造に成功していたかと問われれば、おそらくしていなかったでしょう。しかし、ディーブナーが本気でドイツ軍のために原子爆弾を作ろうとしていたことは明らかです。
―― リーフ・トロンスタッドは、次のように日記に書き残しています。「戦争は人の心をかたくなにする。繊細な心を取り戻すのは、簡単なことではない」。生き残った工作員たちは、戦後どうなりましたか。
彼らはひとり残らず大変な試練を通りました。多くの者が孤独の中、長期にわたって脅威にさらされながら身を隠していなければなりませんでした。ですから、戦争が終わってからも苦しみ続けました。人によって違いはありましたが、ある者は森へ入り、そこに慰めを見出しました。クヌート・ハーグランドは船員となり、平穏を求めて海へ出ました。酒におぼれた者もいましたし、何も見つけることができなかった者もいます。彼らの払った犠牲と経験した苦難は、その後の人生にまで大きく影響を与えたのです。
(文 Simon Worrall、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2016年6月9日付]
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