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半世紀以上続く日本経済新聞朝刊文化面のコラム「私の履歴書」。時代を代表する著名人の自叙伝は、若い世代にどう響くのだろう。「マネジメントの父」、ピーター・ドラッカーさんの「私の履歴書」を、米コンサルティング大手のマッキンゼー・アンド・カンパニー出身のお笑いタレント、石井てる美さんに読んでもらうと、時代を超えて思いがけない共通点が見えてきた。

経営学者のピーター・ドラッカー氏

経営学者のピーター・ドラッカー氏

【ピーター・ドラッカー】1909年、オーストリアのウィーン生まれ。父は外国貿易省長官。経済学者のヨーゼフ・シュンペーターやフリードリヒ・ハイエク、作家のトーマス・マンらと日ごろから接する知的な環境に育つ。貿易会社職員、証券アナリストを経て、夕刊紙編集者などをしながら31年に独フランクフルト大学で博士号取得。37年に渡米。コンサルタントの仕事のかたわら、新聞などに精力的に執筆。2002年、米大統領から民間人に贈られる最高の勲章「自由のメダル」を授与される。05年死去。

【石井てる美 いしい・てるみ】1983年生まれ、東京都出身。白百合学園中学校・高等学校から東京大学文科三類に入学。工学部社会基盤学科卒、東大大学院修了後、2008年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、お笑いタレントを志して09年夏に退社。TOEIC990点(満点)、英語検定1級取得。現在、ワタナベエンターテインメント所属のお笑いタレントとして活動中。著書に『私がマッキンゼーを辞めた理由―自分の人生を切り拓く決断力―』(角川書店)。

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徹底的に自分の強みはのばした方がいい

――私の履歴書から
 そんなある日、地下鉄のピカデリーサーカス駅にある英国最長のエスカレーターの上りの側に乗っていると、下りの側に見覚えのある若い女性を見つけた。フランクフルト大学時代に知り合い、後に妻となるドリスだ。お互いに狂ったように手を振り合った。私は上りきると下りに乗り換え、彼女は下りきると上りに乗り換える。そんなことを4回も繰り返しただろうか。そこでようやく私が乗り換えをやめて合流できた。私にとって人生最高の瞬間だったと思う。
(ピーター・ドラッカー「私の履歴書」第11回)

この部分を読んだときに、本当に奇跡は起こるんだな、と思いました。メールとかSNSがない時代ですよ。私も「すごくやりたい」とか情熱を持って挑んだオーディションは不思議と受かる。こうした状況を私は「生命レベルが高まっている」と呼んでいます。

ドラッカーさんはリスクを乗り越えていった結果、良い流れに乗ったと思うのですが、リスクに立ち向かうことは躊躇(ちゅうちょ)しがちですよね。でも、そこはもう信じるしかない。「こんなに勇気を出したんだから、ここで終わるはずがない」って。

今までのネタで一番リスクをとったのは「少女時代」の格好をして、「短足時代」という芸をやったときです。身長もあまり高くなく、決してスタイルが良いとは言えない私が、あの細くてスタイルが良い「少女時代」の格好をしながら踊ったり漫談をしたりしました。

それまで、どこか自分をステージで表現することができなかった私が、初めて殻を破れたネタだったと思います。結果として、初めてお笑いのライブで優勝しました。周りの目も「単に東大でたのにお笑いをやっちゃった人」から、「この人こんなことやりたかったんだ」と変わった気がしました。

お笑い芸人になることを決めたときに、ある女優さんから「人を楽しませるということは、自分を犠牲にすることから始まります。『全部、犠牲です』と監督から言われました。なので、これが恥ずかしいとか、何かをするのが嫌だという人はエンターテイナーになる資格はないですからね」と言われ、すごく納得しました。

韓国の女性アイドルグループ「少女時代」をパロディーにした一人コント「短足時代」は恥と隣り合わせだったけれど、お客さんにすごく笑ってもらえて。勇気をもってリスクを超えた先で、自分の能力が開花したりするのだなと私が体感した瞬間でした。

将来が不安になって悩んだ時もありましたが「ロールモデルなんていらない」と、今は思っています。ドラッカーさんにロールモデルなんていなかったと思うし、私もそれでいいやって。お笑い芸人としてのキャリアは、認知されて、バラエティー番組のひな壇に呼ばれるようになって――というのが今の王道パターンのひとつです。

私の場合は最近、NHKの英語の番組に出られるようになりました。王道のキャリアとは違いますが、私は英語で演技をするのがずっと夢の一つだったので、本当にうれしいです。行き当たりばったりかもしれないけど、もともとそういう生き方だったし、それでいいや、と今は思っています。

ずれた仮説は、修正すればいいだけ

――私の履歴書から
 どんな改革を進めるべきかについて提言し、報告書を作成する部隊を何と呼べばいいのか。スミディが私と一緒になって考案したのが「経営コンサルタント部」だ。コンサルティング業界が揺籃(ようらん)期にあった時代であり、これは目新しい名称であった。ここに、近代的な経営コンサルタント業の創始者であるマービン・バウワーとの接点がある。マッキンゼーを世界的なコンサルティング会社へ成長させ、2003年に99歳で亡くなった人物だ。
(ピーター・ドラッカー「私の履歴書」第23回)

こんなところに、バウワーさんが出てくるんですね。私は1年ちょっとで辞めてしまいましたが、マッキンゼーで学んだことはたくさんあります。一番大きな収穫は、うまくいかなくてもそこで諦めるのではなく、そこから何度でも挑戦すればいいというのを知ったことです。「失敗しちゃった」ではなく、「検証したけど、仮説がずれていた。修正する」と言うと前向きになれる。ネタも仮説です。最初から100点のものはできないし、まずはやってみて、書き換えていけばいい。

最初は面白くはないけれど、まずは形にしてやってみないと始まらない。そうやってどんどん「Plan(計画)」「Do(実行)」「Check(評価)」「Action(改善)」からなるPDCAのサイクルを早くまわした人が勝ちですよね。間違ってもいいから、どんどん回す。「天才ほど多作」と言われますが、失敗の数が多いというのはPDCAをたくさんまわしていることが理由なのだろうな、と思います。そういう意味では「失敗」は存在せず、「前進」なんですけどね。

私は自分の芸風がまだ確立されていません。結局ネタって自分でできることしかできないんですよ。人をうらやましがっても仕方がなくて、自分の中から出てきたものしかできない。私にとってその一つが英語でした。「短足時代」は確かにうけましたが、テレビには出られませんでした。そのとき先輩に「てる美じゃなくてもいいからじゃないの?」って言われました。英語のネタはすぐにテレビに出ることが決まったので、強みでしか勝てないということがしっくりきました。

最初は、「東大」や「マッキンゼー」という肩書を使うことにすごく抵抗がありました。クイズとかインテリ系のネタだけはなくて、「ばかばかしいことをやりたい」って。でも、そのときは形にできませんでした。勇気もなかったし、何よりやり方が分からなかった。周りからは、「東大なんだからそれを生かしなよ」と言われました。でも、東大を前面に押し出したいわけでもないし、そもそも生かし方もわからない。本当に悔しいというか、葛藤でしたね。

よく、どんな戦略を考えているのかと聞かれますが、戦略とかは考えていないんですよ。マッキンゼー出身のくせに(笑)。ネタもギリギリのところで作っているので、そんな戦略とかを考える余裕がないんです。最近はやっとネタ番組にも出られるようになって、お笑い芸人としてやりたいことが少しずつ形になってきたと思うので、「肩書は肩書で利用すればいいや」と素直に思えるようになってきています。

ひとまず、この先もお笑いのネタで笑ってもらえることは一番うれしいことなので、頑張って面白いネタを作って、お笑い芸人としてもう少し認知されるようになりたいです。

この世界にいて痛感するのは、売れないと本当に何を言ってもだめ。「おまえ有名じゃないじゃん」と言われてしまいます。だから、そのためにはもっとたくさんの人に笑ってもらえて知ってもらえるネタを作りたい。その過程で、キャリアや進路で悩んでいる人の背中を押すこともできたらいいなと思っています。

(聞き手は雨宮百子)

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