三菱自、幻の再生計画に復活の道(安東泰志)ニューホライズンキャピタル会長兼社長

2016/5/30

カリスマの直言

「三菱自動車の再建の道は険しいだろう。筆者は2004年から1年間取締役として同社の再建に関与した。その経験から不正は企業体質に源流があり、それを改められるかどうかが再生の鍵といえる」

燃費データ不正問題が発覚した三菱自動車が日産自動車の傘下に入って再建を目指すことになった。三菱自の信用不安はひとまず収束したが、再建の道は険しいだろう。筆者は2004年から1年間取締役として同社の再建に関与した。その経験から不正は企業体質に源流があり、それを改められるかどうかが再生の鍵といえる。

三菱自は00年と04年にもリコール隠しが発覚し、経営危機に陥った。筆者は04年当時、自らが運営する事業再生ファンド、フェニックス・キャピタル(現ニューホライズンキャピタル)で三菱自の33%強の株式を取得した上、取締役事業再生委員長として再建に関わった。

フェニックスが支援を決めたのは04年5月。当時の三菱自はサブプライムローンの焦げ付きで米国事業が悪化するなどで信用力が低下し、大規模な資本増強が必要となっていた。しかし筆頭株主だった独ダイムラー・クライスラー(現ダイムラー)は追加支援を拒否し、出資を引き揚げる意向を示した。結果として三菱グループの中核企業やJPモルガン証券とともにフェニックスが増資に応じることになった。

そんな中、三菱自から驚くべき事実が6月に公表された。00年に続いてのリコール隠しだ。関係者の多くが寝耳に水の発表だったので支援計画は瓦解寸前になった。筆者のところには多くのメディアから支援を予定通り続けるかどうかの問い合わせがあったが、メーンバンクなど関係者の結束によって何とか支援は実施された。

我々は筆頭株主として、事業再生委員会を組成。筆者は取締役事業再生委員長に就き、社員を中心に100人程度のCFT(クロスファンクショナルチーム)を率いて再生の道筋を模索することになった。支援開始に先立ち、我々は国内外の社員350名以上、サプライヤー14社、販売会社10社の方々に1人90~120分という長時間をかけて丁寧にインタビューを行なったほか、社員1万4100人にアンケートを実施(回答者8178人)し、問題の源流を探った。

そこで分かった事実をひと言で言えば、自分が属する部以外には責任を持たない「タコツボ文化」であり、上司に物を言えないことによる隠ぺい体質だ。その根源にはかつての親会社である三菱重工業とその出身者に頭が上がらず、社内でも三菱重工の社風を受け継いだ開発部門が絶対的な権限を持ち、購買・製造・品質管理などを下に見る風土があった。特に品質管理部の社内評価は低かった。また人事ローテーションが極めて少なく、同じ部署に10年以上在籍する例が多数あった。

調査結果を基に、我々は社員を中心とした9個のCFTとファンドのメンバーが主体のCFT、合計10のチームを立ち上げた。参加いただいた社員の方々は、問題意識が旺盛な社内の中堅クラス約90人、それに我々の総勢100人程だった。どの分科会も部門横断であり、皆が休日も返上するほど熱心に議論し、10月の中間報告、12~1月の最終取りまとめまでを行なった。それまで隠されていた社内の「本当の現実」に合わせた事業計画の数値目標も再構築した。

しかし、事業再生委の答申は部分的にしか日の目を見ないまま今に至っている。04年暮れ、答申を基に現実的な数値計画を伴う具体的な再生プランの作成が大詰めを迎えていたころ突如、メーンバンクから別の計画への変更を要求されたためだ。05年1月に発表された「三菱自動車再生計画」は事業再生委が作成した詳細な内容ではない。

三菱自の国内販売が予想以上に落ち込み、業績悪化に歯止めがかからなかったのが一因だ。事業再生委が作成した計画では目先は構造改革費用が発生するが、2年後から収益は安定軌道に乗るという内容だった。これに対しメーンバンクから当初提示された計画は数年後まで大規模な赤字で推移するという悲観的な内容であった。足元の資金繰り難と将来の収益計画への不安を理由としていた。

そして当然のことであるが、それを前提とすれば三菱自は資本不足であるとの指摘がなされ、三菱重工と三菱商事に追加の増資引き受けの要請があり、メーンバンクも債務の株式化(DES)を含めた資本支援をするという案が急きょまとめられた。こうして三菱自は再び三菱重工が筆頭株主となり、三菱グループの傘下に入った。筆者は05年6月に取締役を退き、フェニックスも出資を引き揚げた。

三菱自は実際には事業再生委が予想した通り、2年後に営業黒字化した。もちろん、それは結果論にすぎず、やはり三菱グループという信用力があったことは取引上重要であったかもしれない。その後08年に起きたリーマン・ショックの後に発生した損失まで勘案すれば、メーンバンクの判断は妥当だったという見方もできなくはない。

確かに企業はメーンバンクのサポートなしに存続できない。だから我々も事業再生に当たってはメーンバンクの意向は可能な限り尊重する。だが、企業の抜本的な再生は「寄らば大樹の陰」やグループ内輪のような甘い論理が通用する世界ではない。ましてや株主への説明責任とガバナンス(企業統治)が厳しく問われる今となっては、当時の三菱グループの選択はあり得ないものだったといえよう。

とはいえ、当時の再生計画が不発に終わったことについてはじくじたる思いが残る。燃費データ不正は1990年代から続いていたとされ、04年からの1年間とはいえ取締役であった筆者も責任を免れるものではないが、事業再生委の活動は無駄ではなかったと自負している。

実を結んだひとつが日産自動車との軽自動車の協業だ。事業再生委は04年夏には三菱自と三菱グループ中核企業に対し、日産自と軽自動車の協業をする案を提示し、その後実現した。今回の不祥事が日産自という「外部の目」から発覚したことの意味をもっと考えるべきだろう。

当時我々が最も意識したことはすべてのステークホルダーに対して責任を果たす、CSR(企業の社会的責任)を意識した会社になることだった。それを体現したのが、CFTでの激論の末に新たに作成した企業理念だ。ここで初めて、三菱自動車に「お客様」を主語とした経営理念が導入され、今に至っている。

開発部門の絶対優位で物事を進めるのではなく、それ以外の部門も早めに参画して開発や製造を行なうことにより、コストが削減できる。そればかりでなく、設計変更を減らすことで十分なテストデータの取得を可能にするなど、不正の芽を摘むことが出来る。恐らく日産自はこの開発部門の問題点を解決することに力を貸してくれるだろう。こうした努力を地道にしていけば企業体質の改善も進むと思う。

実は今回の不正の舞台となった子会社、三菱自動車エンジニアリング(MAE)も我々の提案では日産自との合弁の対象となっていたので、これが実現していたら燃費不正はなかったかもしれない。

三菱自には数千社という関連企業と大勢の社員、そして数百万台のユーザーが存在する。事業再生委が12年前に撒いた種が実って日産自が救済に乗り出したことは幸いであったが、真の再生・復活のためには「三菱」の冠を外してでもガバナンスを強化し、今度こそ風土改革を成し遂げてほしいと切に願う。

安東泰志(あんどう・やすし) 1981年に三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)入行、1988年より、東京三菱銀行ロンドン支店にて、非日系企業ファイナンス担当ヘッド。90年代に英国ならびに欧州大陸の多数の私的整理・企業再生案件について、参加各行を代表するコーディネーターとして手がけ、英国中央銀行による「ロンドンアプローチ・ワーキンググループ」に邦銀唯一のメンバーとして招聘(しょうへい)される。帰国後、企画部・投資銀行企画部等を経て、2002年フェニックス・キャピタル(現・ニューホライズンキャピタル)を創業し、代表取締役CEOに就任。創業以来、主として国内機関投資家の出資による8本の企業再生ファンド(総額約2500億円)を組成、市田・近商ストア・東急建設・世紀東急工業・三菱自動車工業・ゴールドパック・ティアック・ソキア・日立ハウステック・まぐまぐ・たち吉・武田産業など、約90社の再生と成長を手掛ける。東京大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院(MBA)修了。事業再生実務家協会理事。著書に「V字回復を実現するハゲタカファンドの事業再生」(幻冬舎メディアコンサルティング)。