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睡眠

知的ドーピング「スマートドラッグ」の是非

日経ナショナル ジオグラフィック社

2016/6/14

ナショナルジオグラフィック日本版

(イラスト:三島由美子)

 陸上のベン・ジョンソン、野球のアレックス・ロドリゲス、自転車ロードレースのランス・アームストロング、テニスのマリア・シャラポワと聞けば、ピーンとくる方もおられるだろう。そう、ドーピング問題が持ち上がったトップアスリートの面々である。己の身体能力の極限を競うスポーツ界にあってドーピングは最大の禁じ手である。シャラポワは疑惑を否定しているらしいが、大きく自身のブランドイメージを損ねてしまったことは間違いない。

 ドーピングの定義はなかなか難しいのだが、一般的にはスポーツ選手が身体能力を強化するために、薬物や何らかの装置などを使用して競技成績の向上を狙う手法のことをさす。筋力アップ効果のあるステロイドなどがその代表格だ。2008年の北京オリンピックで登場し世界記録を量産した競泳水着レーザー・レーサーなどは物理的ドーピングにあたるのか大きな論議を巻き起こした。ごく最近では、日本自転車競技連盟のスポンサー企業が提供した公式サプリ(梅肉エキス)の中にステロイドの一種が含まれており、企業側が平身低頭するという話もあった。

 スポーツ界でドーピングが禁じられているのは一言で表せば「フェアじゃない」からだ。そりゃそうである。薬物や補助装置を許したのでは、いずれは薬漬けサイボーグ同士の闘いになるだろう。

 ドーピング問題はコンマ1秒を競い合うトップアスリートの世界だけの話と思われるかもしれない。だが、いずれ我々のような一般人の間でも大きな話題として持ち上がりそうな気配がある。

 さすがに、オリンピック選手のように速く走りたい、より高く飛びたいという人は少ないだろうが、もっと頭が良くなりたいかと問われれば大概の人はイエスと答えるだろう。たとえそれが「フェアじゃない」方法だと分かっていても。まさに今後我々にも降りかかってくるのは知的能力を向上させるドーピング問題なのである。

 現在、脳科学者の間でその是非が論議されている知的能力のドーピングとは、最近流行の「大人のドリル」のような物理的方法ではなく、いわゆる「認知機能強化剤」、別名「スマートドラッグ」である。大人のドリルは面倒でも、一粒の錠剤で記憶力が強化され、集中力が高まり、仕事のパフォーマンスが向上する可能性があると言われればどうでしょう。誘惑に勝てますか?

■最も注目されているのは「脳を目覚めさせる薬」

 スマートドラッグと呼ばれる薬物は相当数ある。脳内で覚醒や記憶、意欲などに関わるアセチルコリン、セロトニン、ドーパミンなどのさまざまな神経伝達物質の作用を高めるもの、神経細胞の代謝や脳血流を増加させるものなどが多いが、メカニズムが全く分かっていないものもある。数多くのスマートドラッグの中で最も注目されているのが「脳を目覚めさせる薬」である。

 脳を覚醒させるというと真っ先に「覚醒剤」が頭に浮かぶ方もいるだろうが、そのような違法薬物ではなく、メチルフェニデートやモダフィニルなどの臨床で使われている治療薬に関心が集まっているのである。これらの薬物は覚醒刺激薬とも呼ばれ、日本国内でも、過眠症(十分寝ても眠気がとれない睡眠障害の一種)や注意欠陥多動障害(ADHD)の治療に用いられている。

 覚醒剤の代表格はアンフェタミンやメタンフェタミンなどで、脳の快感中枢を強く刺激するため精神依存が生じやすいほか、時には幻覚妄想や認知障害を引き起こすこともある。メチルフェニデートやモダフィニルもあくまで「病気を治す」ために開発されたのであり、長期服用によってやはり依存が生じる危険性があるなど、サプリメントのように安易に使用できるものでは決してない。

 一方で、健康な人でも覚醒刺激薬を服用すると眠気が取れるだけではなく、注意力や認知機能が高まり、複雑な課題を処理する能力が向上するという研究結果が増えるにつれて、ハードワークを求められているホワイトカラー層や学生の間で関心が高まっているのだ。現在、依存形成の恐れがより少ない新しい覚醒刺激薬も幾つか開発途上にあり、過眠症の治療薬としてではなく「スマートドラッグの候補薬」として一部から熱い視線が注がれている。

 誤解を招かないようにここで明記しておきたいが、健康な人が「より高みを目指す」ために覚醒刺激薬を服用することを良しとしているのではない。仕事や勉学に薬物を使うとは何事か、地頭で勝負しろ、スマートなどという名称自体がけしからんと立腹する人も少なくないだろう。スマートドラッグの知的能力の増強効果を認めている研究者の多くも、長期的な服用時の安全性について確証が得られていない現在、一般的な普及については慎重派が大多数である。

 ただ、この競争社会の中でパフォーマンスを高める方法があるなら是非試してみたいと考える人々が少なからずいることも確かである。実際、欧米では脱法的なルートで市中に出回っているスマートドラッグの数が増加しているとの調査結果がある。

 成績を上げるために富裕層の子供が高額な塾に通う、印象をよくするために美容整形を受ける、徹夜仕事をこなすためにカフェインを摂取する、それらとスマートドラッグとの間にはどれだけの違いがあるのかと主張するラジカルな研究者もいる。

■米国ではすでに「合法的に」デビューしている

 スマートドラッグ問題についてはすでに10年程前から脳科学者間では真剣に論議が行われ、種々の科学的レビューも行われている。2012年には英国王立協会もレポートを出している。タイトルは「Human enhancement and the future of work(能力強化と労働の未来)」。

 この報告書の中で、スマートドラッグや、バイオニックアーム、バイオセンサー、iPS細胞を使った網膜移植に至るまで、人間の精神的、身体的パフォーマンスを強化するテクノロジーが将来的に我々の仕事や生活にどのような変革をもたらすのか論議をしている。英文しかないが関心のある方はご一読いただきたい。

 新しいテクノロジーに対してアレルギー反応が生じるのは世の常だし、スマートドラッグの是非についてはさまざまな意見があると思うが、個人的にはある程度「避けられない方向」なのだと感じる。それはおそらく次のような「堤防の穴」から始まるだろう。

 識者が考えるスマートドラッグのデビューはこのようなものだ。おそらく社会的に貢献度が高く、高度な技術を要する職種でスマートドラッグが解禁される。それは多人数を安全に運ぶ必要のある公共交通機関のオペレーターや、危険作業の従事者、長時間にわたり精緻な作業を求められる外科医などである。スマートドラッグを肯定的に捉えているある研究者はこう投げかける。「眠気を取るために飲用した大量のカフェインの副作用で手指の震えがある外科医と、スマートドラッグでパフォーマンスが向上した外科医と、あなたはどちらを選ぶのか」と。そしてスマートドラッグを活用する職種は徐々に拡がるのではなかろうか。

 実はすでに米国では「合法的に」スマートドラッグはデビューしている。先に紹介した過眠症治療薬のモダフィニルは夜勤明けに運転して帰宅する際に服用することが認められている。建前上は交代勤務睡眠障害(夜勤のために強い眠気やパフォーマンスの低下が生じる「病気」)の治療薬ということになっている。普通に考えれば運転をしなければいいだけの話なのだが、車社会のアメリカでは夜勤明けの運転は「ごく普通に行えるべき」能力であり、それができないのは「病気」なのである。

 じゃあ、残業続きの俺は? 受験を控えて疲労困憊(こんぱい)の私は? ライバルのあいつが服用してるなら僕も、なんて流れが起こるに違いないのである。モダフィニルは湾岸戦争の際に人員や物資をピストン輸送するヘリコプターの操縦士が服用していたとも聞く。24時間働いている企業戦士の俺にも服用させろと言う多数の声がわき上がったときに医薬品行政の担当者はどのように反論するであろうか。

(イラスト:三島由美子)
三島和夫(みしま・かずお)
 1963年、秋田県生まれ。医学博士。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所精神生理研究部部長。1987年、秋田大学医学部医学科卒業。同大精神科学講座講師、同助教授、2002年米国バージニア大学時間生物学研究センター研究員、米国スタンフォード大学医学部睡眠研究センター客員准教授を経て、2006年6月より現職。日本睡眠学会理事、日本時間生物学会理事、日本生物学的精神医学会評議員、JAXAの宇宙医学研究シナリオワーキンググループ委員なども務めている。これまで睡眠薬の臨床試験ガイドライン、同適正使用と休薬ガイドライン、睡眠障害の病態研究などに関する厚生労働省研究班の主任研究者を歴任。『8時間睡眠のウソ。日本人の眠り、8つの新常識』(川端裕人氏と共著、日経BP社)、『睡眠薬の適正使用・休薬ガイドライン』(編著、じほう)などの著書がある。

(日経ナショナル ジオグラフィック社)

[Webナショジオ 2016年4月28日付の記事を再構成]

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