アルモドバルの母と娘 「ジュリエッタ」の痛み
カンヌ映画祭リポート2016(6)
「オール・アバウト・マイ・マザー」(1999年)、「ボルベール〈帰郷〉」(2006年)で母と子の関係を描いたスペインのペドロ・アルモドバル監督が、またも母と娘の物語に挑んだ。17日のコンペで上映された「ジュリエッタ」は、愛する娘に突然去られた母の回想を通して、およそあらゆる人間に備わる悲しみ、心の痛みの根源に迫る。
マドリードに住む中年女性ジュリエッタ(エマ・スアレス)は、街で偶然会った娘の友人から、12年前に出奔した娘アンティアの消息を聞く。恋人とポルトガルに移る準備をしていたが、取りやめて、マドリードに残ることを決意。かつて娘と過ごした古いアパートを再び借りる。そこで娘に話していなかった自分の過去をノートに書き始める。
若き日のジュリエッタ(アドリアーナ・ウガルテ)が一人で夜汽車に乗っている。向かいに座った男を警戒した彼女は食堂車に移り、そこで出会った男ショアンと親しくなる。列車が急停車する。向かいの席の男が自殺したことを知ったジュリエッタは眠れない夜の車中で、ショアンと激しく抱き合う。
ジュリエッタはショアンと結婚するが、息子を溺愛する義母に疎んじられる。病床の実母を見舞えば、父の不誠実な態度にいらだつ。そして義母の一言のために信頼していた夫への疑念が芽生えたとき、夫が溺死する。
マドリードでアパートを借りたジュリエッタは娘を一人で育てながら、残された人生をすべて娘にささげようと決意する。しかし18歳になった娘は突然姿を消し、母親との連絡を絶つ。
愛と不安、愛と後悔、愛と嫉妬、愛と喪失感、愛と悲しみ。それはみな背中合わせなのだ。心がひりひりするようなエピソードを通して、アルモドバルはそう言っているような気がする。
ジュリエッタの痛みがどの画面からも切々と伝わってくる。愛が強すぎれば、痛みも強すぎる。ノーベル文学賞を受けたカナダの女性作家アリス・マンローの3つの短編小説に基づくが、この痛みはまぎれもなくアルモドバルの痛みである。
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もうひとつ印象深い母親が出てくる映画があった。ブラジルのクレベル・メンドンサ・フィロ監督のコンペ作品「アクエリアス」だ。題名はヒロインが住むマンションの名称。ブラジルの港湾都市レシフェの海岸沿いに1940年代に建てられた古いマンションだ。ヒロインのクララ(ソニア・ブラガ)は65歳の元音楽評論家で、このマンションの最後の住人である。
クララは裕福な家庭で育った上品なインテリだ。アクエリアスも上流階級向けの高級マンションだった。ところが時代が変わり、環境もすっかり変わってしまった。海岸沿いは夜中まで騒々しく、砂浜でセックスしているカップルまでいる。住人はみな退去してしまった。開発業者はクララにも退去を勧め、子供たちも説得に来る。しかしクララは頑として聞かない。
ある夜、マンションの空室にたくさんの若者たちが入り込み、音楽をガンガンかけて、騒ぎ始めた。クララもステレオのボリュームをあげるが、まったく気づかない。ドアからのぞくと乱交状態になっている。クララは知人の若い男に電話して部屋に呼び、自分も愛し合ったあと、開発業者に対し決然と行動に出る……。
ブルジョワ育ちでお嬢さま気質が抜けないが、リベラルで、生き方に一本スジが通っている。子は子、親は親で、子供に頼らない。新聞に大きく取り上げられても別にうれしくない。金があるのにマナーを守らない輩は許せない。このごろのビジネスエリートというのが大嫌いだ。
このおばあさんが痛快で魅力的なのは、そういう年寄りが希少になっているからだろう。反知性主義がはびこって、積み重なった知恵や文化をないがしろにする風潮は世界中に広がっている。
フランスのオリヴィエ・アサイヤス監督は一昨年の「アクトレス/女たちの舞台」に続き、今年もコンペに登場。豊富な映画知識を生かして、様々なジャンルを往還する監督だが、17日上映された「パーソナル・ショッパー」はアサイヤス流のホラーと言っていい。
モーリーン(クリステン・スチュワート)の仕事は、忙しいセレブの服や装身具の買い物を代行するパーソナル・ショッパー。パリのあちらこちらや、時にはロンドンまで買いに行く。そんな彼女のスマートフォンに短いメッセージが入る。「I know you」。誰からなのかわからないが、相手は自分を監視しているかのように、居場所や行動を正確に把握していて、次から次にメッセージを送ってくる。モーリーンはその命令に従わざるを得ない状況に追い込まれ、どんどん危険な穴に落ちていく……。
デジタル機器の中に現れる幽霊に追いつめられていく恐怖。クライアントの服を着て、盗みや殺しの罪を着せられる恐怖。そこには現実と虚構の区別がつかず、自我同一性が揺らいでいくという、現代人の病のようなものが映っている。多種多様な映画を撮っているアサイヤスだが、この点では一貫している。
スマホの画面をにらみながら追いつめられるクリステン・スチュワート。その背後に何者かがフーッと現れる。クリステンはそれに気づかない。だから怖い。
(編集委員 古賀重樹)
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