世界を映す鏡の引力 映画地図の変化も示す
カンヌ映画祭リポート2016(1)
なぜ人々はカンヌに引き寄せられるのか? この南仏の海辺の小さな街に来るたびに、いつも考えてしまう。
5月10日。映画祭開幕前日の街は落ち着かない。スーツケースを転がす人、カフェで打ち合わせる人、バッジを受け取る列に並ぶ人、ブースを設営する人、スーパーで買い出しをする人……。誰もが長丁場の仕事に備えている。69回目を迎えた今年もわさわさとした光景は変わらない。
カンヌ国際映画祭事務局が発表した昨年の参加登録者は3万2465人。右肩上がりで増えており、10年前の約1.5倍になった。製作者、配給業者、報道関係者が中心で、海外からの参加者が全体の約6割を占める。フランス以外の欧州から1万581人、米国から3623人、東アジア・オセアニアから2251人。どの地域の人も増えているが、特に中南米や東南アジア・中央アジアの伸びが目立つ。
最高賞のパルムドールを競うコンペティション部門が権威をもち、世界の耳目を集めていることは言うまでもない。巨大な映画マーケットを併設し、世界から売り手と買い手が集まることもよく知られている。
カンヌ映画祭ディレクターのティエリー・フレモーは「私たちは時代の新たな表現、新たな形式、新たな視覚的創意を際立たせるために存在し、時にははかなく、時には永続的な、映画の芸術たるべきものを描写している」と述べている。フレモーが言うように、カンヌが映画芸術の典型的なモードを示しているのは確かだ。製作者も配給・興行者も批評家もジャーナリストも、それに無関心ではいられない。
ただ、それだけではないという気がする。主会場パレの暗闇で大量の映画を見ながら、我々は個々の映画作家の表現や形式に驚き、映画言語の豊かさを実感すると同時に、そこに映し出される世界の諸相に目を凝らし、描き出される人間の実相に感じ入っている。フレモーの言葉は作品選定者の倫理としてまったく正しいが、映画祭に集まる観客は上映される作品により多様でより豊かな価値を見いだしているのではないか。
1950年代末から45年もカンヌ映画祭に通った映画評論家の秦早穂子さんはかつて「映画は世界を映し出す鏡だ」と語った。その通りだと思う。優れた映画は優れた鏡なのだ。
ベルギーの小さな工場の人員整理にも、中国の地方都市の若者たちの夢と挫折にも、トルコの山荘に籠もるインテリの苦悩にも、今の世界の矛盾と困難が如実に映っている。そんな世界と対峙する人間のささやかな営みが国境を越えて人々の心を打つ。映画祭は開かれた場だ。各国から集まった映画作家たちが様々な世界を提示し、各国から集まった観客がそれと向きあう。映画マニアたちの閉じられたサロンでは決してない。
今年もたくさんの映画が集まった。コンペティション部門に21本、ある視点部門に18本、短編部門に10本、シネフォンダシオン部門に18本、クラシック部門に39本。これにコンペ外の作品も含めた公式上映作品は130本余り。このほか並行開催の監督週間で長短編あわせ29本、批評家週間で長短編あわせ25本が上映される。さらにマーケットを加えれば全部で1000本を超す映画が上映されることになる。
映画祭の顔であるコンペ部門にはケン・ローチ(英国)、ペドロ・アルモドバル(スペイン)、ジム・ジャームッシュ(米国)、ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟(ベルギー)など名匠の作品がずらりと並んだ。ブリュノ・デュモン(フランス)、クリスティアン・ムンジウ(ルーマニア)、ニコラス・ウィンディング・レフン(デンマーク)も受賞歴がある常連だ。前作「マミー」で審査員賞を獲得した27歳の新鋭グザヴィエ・ドラン(カナダ)も選ばれた。
オリヴィエ・アサイヤス(仏)、ショーン・ペン(米国)、ジェフ・ニコルズ(米国)の新作も目が離せないし、「氷の微笑」のポール・バーホーベン(オランダ)の久々の登場は楽しみだ。女性監督はマーレン・アーデ(ドイツ)、アンドレア・アーノルド(英国)、ニコール・ガルシア(仏)の3人。パク・チャヌク(韓国)、アスガー・ファルハディ(イラン)、ブリランテ・メンドーサ(フィリピン)のアジア勢はいずれも受賞歴があり強力だ。
監督の国籍別で見ると、欧州が13(内フランスが4)、北米が4、南米1、アジア3で、カンヌ映画祭としてはほぼ例年並みのバランス。国際映画祭での進境著しいルーマニアから2本入り、フィリピンからも選ばれたことは、世界の映画地図の変化を反映している。一方、伝統国のイタリアはゼロ。中国語映画が、ある視点部門も含めて一本もないのは寂しい。
日本作品は昨年まで6年連続でコンペに入っていた(イランのアッバス・キアロスタミが日本で撮った日本語映画「ライク・サムワン・イン・ラブ」を含む)が、久々に外れた。この間、河瀬直美、三池崇史、是枝裕和が2回ずつ選ばれている。新しい世代の台頭が待たれる。
ある視点部門では1980年生まれの新世代、深田晃司の「淵に立つ」が念願のカンヌ初出品となる。「ほとりの朔子」(2013年)がナント三大陸映画祭でグランプリを受賞し、フランスで公開されたことで弾みがついた。主演の浅野忠信は昨年の同部門で監督賞を受けた黒沢清監督「岸辺の旅」に続き、カンヌの赤じゅうたんを歩く。
是枝の「海よりもまだ深く」も、ある視点部門に選ばれた。是枝にとっては3作連続のカンヌ出品。是枝が9歳から28歳まで実際に住んだ東京・清瀬の団地で撮影した。「歩いても 歩いても」(08年)と同じく、阿部寛がダメ息子、樹木希林が老母を演じるが、是枝の家族を見つめるまなざしの深化が感じられる傑作だ。
オランダのマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットの「レッドタートル ある島の物語」は高畑勲監督がアーティスティックプロデューサーを務め、スタジオジブリも製作に加わった日本・フランス・ベルギー合作のアニメーション作品。米アカデミー賞短編アニメ賞を受けた「岸辺のふたり」(00年)を見たジブリの鈴木敏夫プロデューサーと高畑監督が働きかけて実現したという同監督初の長編作品だ。
前夜に雨が降り、開会式の朝はどんよりとした曇り空になった。各国から集まった作品がどんな世界を映し出すか。それは見てみないとわからない。その期待感も祭の前のそわそわした空気の底にある。
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カンヌ国際映画祭は11日夜、開幕した。オープニング作品はウディ・アレン監督「カフェ・ソサエティ」。1930年代のハリウッドとニューヨークを行き交うほろ苦い恋愛喜劇だ。対照的な2つの街の風景を名撮影監督ヴィットリオ・ストラーロが美しく切り取り、ヒロインのクリステン・スチュワートのほのかな色香が画面に漂っていた。
開会式に先立つ記者会見には「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の監督で審査員長を務めるジョージ・ミラー(オーストラリア)をはじめコンペ部門の審査員がそろって登場した。アルノー・デプレシャン(フランス)、マッツ・ミケルセン(デンマーク)、キルステン・ダンスト(米国)、ヴァネッサ・パラディ(フランス)、ネメシュ・ラースロー(ハンガリー)ら8人を従えたミラーは「彼らが映画を愛し、情熱的で、鋭い議論ができることをもう知っている」と語った。
傑作だったのはカナダ人記者にカナダ映画についての意見を求められたドナルド・サザーランド(カナダ)。「有名な話がある。英国の兵士、フランスの兵士、カナダの兵士が戦場で最後の願いの機会を与えられた。英国人は一杯の紅茶を求めた。カナダ人はカナダのアイデンティティーについて話すための15分を求めた。フランス人はそんなカナダ人を撃つことを求めた。背中が凍りついたよ」と答えて、満場の笑いを誘った。
(編集委員 古賀重樹)
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