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旧国立競技場の聖火台 「第1号」は埼玉・川口に

2016/5/14

旧国立競技場の聖火台を作った職人の遺族の鈴木昭重氏は埼玉県川口市にある「聖火台」の思い出を語る。

 東日本大震災で被災した宮城県石巻市に復興のシンボルとして貸与中の旧国立競技場の聖火台。男子ハンマー投げ金メダリストの室伏広治選手を中心に石巻では聖火台を磨く維持活動が行われている。今も聖火台は2020年の東京オリンピック・パラリンピックで再利用案が上がるほど敬意を集める。その裏には「命懸けの聖火台」として語り継がれるドラマがあった。

■聖火台の波模様は太平洋を表現

 高さ2.1メートル、重さ2.6トン。聖火台はかつて鋳物産業で栄えた埼玉県川口市の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助さん、文吾さん親子による作品だ。もともと1958年の第3回アジア競技大会に向けて作られたもので、横線は参加国・地域の数、波模様は太平洋を表している。

 「次のオリンピックは兄弟の分も見届けないとね」と語るのは萬之助さんの末子、昭重さんだ。萬之助さんには男女10人の子がいたが、鋳物師を継いだ4人の子息は昭重さんを除いてすでに他界している。

 川口にはレプリカと呼ばれる本物そっくりな聖火台がある。昭重さんによれば、これはレプリカではなく「聖火台1号」だ。

 聖火台は当時の川口市長を通じて国が依頼してきた。納期3カ月で20万円という条件で、大手企業は軒並み断ったという。

 「今なら400万円くらいの価値かな。鋳型を作るだけでもそのくらいかかる」(昭重さん)

 当時社長だった長男の幸一さんが「割に合わない」と依頼を断るも、部屋の奥で晩酌をしていた萬之助さんが「俺がやる。こういう仕事は損得を考えるな」と言って出てきたという。「親父はお金がもらえない仕事は代わりに酒をもらってくるような性格で、家族をよく困らせていた」と昭重さんは目を細めながら振り返る。

 損得を考えない萬之助さんの職人気質を継いだのが三男の文吾さんだ。父の誘いに応じて製作に加わり、2カ月後に鋳型を完成させた。

■突然の悲劇

 しかし、ここで悲劇が起きた。溶解炉で溶かした鋳鉄を鋳型に流し込む「湯入れ」という作業中に鋳型が爆発。破損した部分から鋳鉄が流れ出てしまった。失敗だった。その場に萬之助さんは立ち尽くし、ショックによる心労でそのまま寝込んでしまったという。その後も萬之助さんの容態は回復することなく、8日後に息を引き取った。

 納期までは1カ月を切っていた。事実を知り、動揺して仕事ができなくなったらいけないと文吾さんには萬之助さんの死を伝えなかったという。家族にとって苦渋の決断だった。葬儀当日に父の死を知った文吾さんはあわてて葬儀に向かったが、父の顔を見ることはできなかった。

 文吾さんはその後、取りつかれたように作業に没頭し、不眠不休の末、兄弟や仲間の力を借りて2号となる聖火台を2週間後に完成させた。萬之助さん親子の尽力を知った当時の河野一郎五輪担当相らがこの2号を東京五輪の正式聖火台として採用することに決めたという。

 親子で最初に手掛けた聖火台は作業現場になっていた川口内燃機鋳造(埼玉県川口市)に保管されていた。鋳鉄が流れ出て失敗した部分は修理され、2004年に川口市内の青木町公園に設置された。これが父の萬之助さんによる作品であることは、「鈴木萬之助」を意味する「鈴萬」の刻印が物語る。

 実は現在、石巻にある聖火台にも「鈴萬」と刻まれている。萬之助さんが倒れた後、作業をやり直して製造されたため、実際には萬之助さんの手は入っていないが、父の遺志を込めて「鈴萬」と刻んだという。レプリカとされる「聖火台1号」は失敗を乗り越えて仕事を完成させた親子の職人魂を今に伝える。

■食用ごま油で磨く

聖火台を掃除する鈴木文吾夫妻(鈴木昭重氏提供)

 文吾さんは東京五輪終了後も毎年10月10日付近になると旧国立競技場に出かけて聖火台を磨いた。鋳物の維持には食用ごま油を使って磨くのが最適だという。

 文吾さんは2008年に86歳で他界したが、弟の昭重さんが遺志を継ぎ、聖火台の保存に尽力。それに感銘を受けた室伏選手が維持活動に名乗りを挙げ、聖火台をめぐる命懸けのドラマは現在、被災地の復興のシンボルとして後世へと語り継がれている。

(ライター 片岡友理)

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