2014/12/13

日本の歩き方

全国に共通するそうしたイメージが、九州で強固になった理由は何か。そこで「カッパは九州生まれだ」とまで断言するのは神奈川大学の小馬徹教授。現在の佐賀県内の領地を鎌倉幕府に与えられ入植してきた豪族の渋江氏が「印象的なカッパ像を植え付けた」。低地に広がった領地の支配を進める上で治水技術の確かさや権力を誇示するために、水の妖怪であるカッパを使役するとの説を流布したという。

渋江氏にはカッパ伝説に立脚した水難よけ護符を配り歩いたり、熊本方面でカッパの権威を支配に利用したりした子孫もいた。久留米地方では別の領主がこの領民対策をまねた。こんな経緯で各地にカッパ伝説が根付いたと小馬教授は説く。有明海や筑後川近辺の治水の営みがカッパ像の再生産に一役買ったわけだ。

もっとも当初の九州のカッパは、亀のような甲羅を背負い、頭に皿を乗せた現在一般的な姿とは違ったようだ。「川の中の猿というイメージが強かった。西日本で多かったカワウソがカッパ像につながったのではないか」との説を、国学院大学の飯倉義之助教は披露する。毛むくじゃらで人間のようなカッパと相撲をとったとの伝承が各地に残るという。

低地が広がり治水事業が盛んだった北部九州に比べて山間の急流との関わりが深かった南九州では、「山と里とを往来する山の神としてのカッパ像が形成されたとの見方がある」(飯倉助教)。山に住む者という意味の「ヤマンシ」「ヤマンタロウ」などという呼び名があった。島しょ部でも海の妖怪としてのカッパ像がつくられ、例えば長崎県の五島列島では「ガッポ」と呼ばれたという。

田主丸の街角では橋の欄干に相撲を取るカッパの像が(福岡県久留米市)

こうした多彩なカッパ像が現在一般的なイメージに統一されたのは、江戸時代の博物学である本草学の学者の存在が大きい。カッパの存在を検討した学者たちが目撃談をやりとりする中で、「スッポンが川の主という関東で標準的だったイメージをもとにして現在のカッパ像が広まった」と、飯倉助教は説明する。

ほかにも九州各地にはカッパ像の補強材料が多く、熊本地方では「治水の神の加藤清正への信仰が根強く、カッパ伝説の多さにつながった」(熊本大の鈴木准教授)面もあるかもしれない。「熊本を追われた九千坊が受け入れに感謝して、当地の水天宮のお守り役になった」(久留米市)との伝説も、民間信仰を強める役目を果たした。

一方で、北九州の壇ノ浦で水死した平家の武士がカッパになったとの伝説もある。これも総じていえば、「水にまつわるイメージの核が豊富だったことが、カッパ伝説の再生産に寄与した」(福岡市博物館の村松主事)ことの現れだろう。治水の歴史や急流との闘いなど、地域によってカッパ像の源流は異なるが、梅雨や台風の影響もあり水の豊かな九州の土地柄がカッパ王国につながっていると考えれば、妖怪への愛着もひときわ湧いてくるかもしれない。(西部支社 岩崎航)

注目記事