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千葉佐那 龍馬が惹かれた剣術小町 ヒロインは強し(木内昇)

2014/9/28

 「女だてらに」「女にしておくのはもったいない」といった言い回しが昔はよく使われていた。いずれも意味合いとしては褒め言葉なのだが、時代錯誤な感は否めない。女性は男性より劣っている、という前提が伴うためだ。

イラストレーション・山口はるみ ■北辰一刀流小太刀の免許皆伝 1838~1896年。北辰一刀流桶町道場主、千葉定吉の次女として生まれる。14歳にて北辰一刀流小太刀免許皆伝。龍馬が北辰一刀流長刀兵法目録皆伝となった安政5年(1858年)に婚約したともいわれる。維新後は京都の華族女学校の舎監を経て、東京千住で灸冶院を開いて生計を立てた。一生独身を貫いたとも、維新後一時結婚したともいわれるが定かなところは不明。墓所は甲府の妙清山清運寺にある。

 幕末の江戸に、この「女だてらに」を地でいく人物がいた。北辰一刀流剣術師範・千葉定吉の次女、佐那である。幼い頃より道場に出て、十四歳にして免許皆伝。特に小太刀が得手で、宇和島藩江戸屋敷で伊達家の姫君へ稽古をつけた程の腕前だった。

 道場主の家に生まれれば女であれ自然と剣術に秀でるのでは、と考えるのは早計だ。佐那には姉と妹があるが、両者が剣に通じたという史料はない。また家督は兄の重太郎が継ぐため、佐那には剣術を習得する必然性もなかった。おそらく興味の赴くまま剣を学び、かつその才能にも恵まれた人だったのだろう。

 評判の美人で、近隣では「千葉の鬼小町」で通っていた。剣術修業で千葉道場の門を叩いた坂本龍馬が心惹かれたのもむべなるかな、である。

 龍馬は土佐と江戸を行き来しつつ安政五年(一八五八年)、北辰一刀流長刀兵法目録を受けている。佐那とも婚約したようだが、時は内憂外患の折、千葉道場にはとどまらず東奔西走を続けた。ただその間も佐那との交流は続いていたようだ。文久三年(一八六三年)、龍馬が姉・乙女に書いた手紙が残っている。

「此人はおさなというなり。本は乙女といいしなり。今年廿六歳になり候。馬によく乗り剣も余程手づよく、長刀も出来、力はなみなみの男子よりつよく、(中略)心ばへ大丈夫にて男子など及ばず」

 十三弦を弾き、絵もうまく、物静かなことなども書き連ねてある。その文面から彼がいかに佐那を好いていたかが鮮やかに伝わってくる。

 だがこの翌年、龍馬は京で、のちの妻となる楢崎龍と運命的な出会いをする。この現実を佐那がどう受け止めたのか、知る由もない。けれど折々に龍馬の思い出を語り、夭逝した姉の遺児に「龍太」と名付けたという逸話を聞くと、生涯その心に龍馬が棲んでいたと思えてならないのだ。

 佐那は維新後、兄・重太郎と共に京に移り住み、華族女学校の舎監(寄宿舎の管理をする役職)として勤めた。新たな世になり、それまで研鑽してきた剣の道が潰えても、大事な人を失っても、彼女は凛として自らの人生をまっとうしたのではないか。「心ばへ大丈夫にて男子など及ばず」と龍馬が書いた通りに。

 この「男子など及ばず」は「女だてらに」とは異なる。龍馬は佐那を、女にしては優秀、と見たのではなく、純粋に人として崇めていたのだ。

 女性の社会進出が叫ばれる昨今、課題は今なお潜在する「女だてらに」という旧弊な感覚の排除にある。能力や技術を持った女性がすでに数多くいることを思えば、あとは龍馬のようなニュートラルな視点を持つ器の大きな男性が社会に増えれば済む話なのだが……これぞ最大の難題という気がしなくもない。

[日本経済新聞朝刊女性面2014年9月27日付]

 木内 昇(きうち・のぼり) 67年東京生まれ。作家。著書に「茗荷谷の猫」「漂砂のうたう」(直木賞)「笑い三年、泣き三月。」「ある男」など。

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