若松賤子 家庭からの社会変革訴え
ヒロインは強し(木内昇)
若松賤子(しずこ)は五歳に満たない頃に戊辰戦争を経験している。故郷の会津若松は官軍に攻め込まれ、戦場と化した。弾丸が飛び交う中、どうにか逃げ延びるも、父は箱館戦に加わって捕虜になり、母は病を得て亡くなった。戦争により一家は離散、賤子は横浜の織物商に勤める大川甚兵衛に引き取られる。ここでアメリカ人宣教師ミス・キダーの塾に通い、英語に出会うのだ。
ただ、当初は熱心な生徒とは言いがたかったようだ。養家に馴染めず、万事に心を閉ざしていたせいだろう。彼女が変わったのは、ミス・キダーが明治八年(一八七五年)に開校した女子教育の場、フェリス・セミナリーの寄宿生になってから。家族のような学友や教師に心を解いたのだ。勉学に励み、高等科卒業後は和文教師として採用されるほど成績も優秀だった。
教師になって間もない賤子の演説が残されている。
「将来妻になり母になることは、日本の若い文明が与え得る最上の教育を受ける資格がないということでしょうか」
女性の学ぶ権利、働く権利に対する主張は数あるが、多くは社会進出をのみ見据えたものだった。賤子はしかし、職業婦人にならずとも、誰にとっても学ぶことは大切なのだと訴える。家庭からでも世の中を変えていける、と。
自身が結婚したときも、妻は夫の所有物ではなく、ひとりの人格だ、という姿勢を貫いたが、一方で家事一切を好んで引き受けたという。「針と糸が女の仕事の象徴であった時代は去りました。世界の知的分野は、我々の才能を待ち望んでいます」と世の女性を鼓舞しながらも日常を慈しんだのは、家族に縁薄かった賤子がようやく自分の家庭を手にしたためだったろう。
この頃から彼女は意欲的に翻訳に取り組んでいく。「忘れ形見」「イナック・アーデン物語」、そして「小公子」。漢文和文が主流で言文一致は草創期だった当時、英文のニュアンスを日本語に置き換えるには一方ならぬ苦労が要った。日々試行錯誤しながらも、言文一致で独自の文体を編み出し、翻訳完結に漕ぎ着けたのは、その情熱もさることながら、家族と離れて異境の地で生きるこの物語の主人公に自らを重ね合わせ、励まされていたからかもしれない。
こののち彼女は肺を病み、郊外での療養を余儀なくされる。けれどその間も精力的に翻訳をし、評論や物語を雑誌に発表していった。三十一歳で亡くなる日まで、家庭と仕事を大切にした人だった。
幼い頃から流転の生活を強いられたから、女性の自立の重要性を知っていた。同時に家族への思慕も人一倍強かった。そうして生涯、戦争を憎んだ。日清戦争終結時、ずっとこの戦争に反対していた賤子はこう書いている。
「戦争に勇敢な人になるよりも、日常生活で勇気を出して欲しい」
日常や家族を無惨に壊す野蛮な方法に走らずとも、家庭から個人から世の中を変えることはいくらだってできるはずなのです、とその言葉は説いているような気がする。
[日本経済新聞朝刊女性面2014年10月18日付]
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