五右衛門風呂なお需要 唯一のメーカー広島にあり
大和重工、職人技が支え
五右衛門風呂の語源は大泥棒の石川五右衛門。1594年に京都・三条河原で釜ゆでの刑に処された故事に基づき、かまどの上に鉄製の釜を据え、下から火をたいて沸かす風呂をこう呼ぶ。現在、五右衛門風呂を製造する唯一のメーカーが大和重工である。
最盛期月2万台
「昭和30年代の最盛期は月産2万台で最近は50台程度。それでも需要は根強い」と田中保昭社長は話す。五右衛門風呂の価格は10万8千円(直径76センチ、高さ64.2センチ)から。家庭用のほか温泉旅館や温浴施設などから注文があり、吉田工場(広島県安芸高田市)で一貫生産している。
同工場は五右衛門風呂のほか、陶器風呂、高級住宅やホテル向けの鋳物ホーロー浴槽なども手がける。鋳造やホーロー加工は手作業に頼る箇所も多く「昔ながらの職人技に支えられている」と田中社長は説明する。
大和重工の創業は1831年(天保2年)。広島藩の御用鋳物師だった瀬良嘉助が「茶屋」の屋号で鍋、釜などの製造販売を始めた。五右衛門風呂の生産を始めたのは2代目嘉助の時代の明治初期。下関で考案されたことから当初は「長州風呂」と呼ばれていた。
2代目嘉助は改造した長州風呂を「芸州風呂」「広島風呂」と名づけて売り出したが、幕末維新の政変から間もない当時、佐幕派だった芸州広島藩は庶民に人気がなく、やむなく「長州風呂」に変えたところ、販売が急伸したという。
2度の事業破綻
日清・日露の戦争特需で巨万の富を築いたのは3代目嘉助。呉・佐世保の海軍工廠(こうしょう)の拡張工事で施設用鋳物を大量受注するなど事業は急成長したが、日露戦争後の不況で破綻に追い込まれる。「茶屋」以来の歴史は一度途絶えるが、軍需を除く鍋、釜などの鋳物事業を弟の瀬良嘉一が継承して1920年に株式会社化。「瀬良商工」(大和重工の前身)として再出発した。
ただ、瀬良商工も関東大震災後の金融恐慌のあおりで再び破綻。この時、広島財界人の勧めもあって同社の再建を引き受けたのが田中恭造。田中社長の祖父である。
田中家は恭造の父・保が養蚕地域への桑の苗木販売で財をなした。恭造は保を社長に据え、自身は取締役として経営を取り仕切った。26年に田中家が経営の実権を握ると、古来たたら製鉄の加工・物流の拠点として栄えた安芸郡可部町(現広島市安佐北区)に本社を移し、特殊鋳物や再生銑鉄の製造などに事業のすそ野を広げた。
戦後は産業機械に本格進出して業容を拡大。61年に東証2部に上場した。現在も船舶エンジン用鋳物部品などの産業機械は浴槽などの住宅関連機器と並ぶ主力部門だが、部品メーカーは下請けの立場で収益は苦しい。「五右衛門風呂をはじめ(住宅関連の)自社ブランド製品があったからこそ生き残れた」と田中社長は振り返る。
(広島支局長 安西巧)
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