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イタリア・ミラノのガッレリア=PIXTA

イタリア・ミラノのガッレリア=PIXTA

イタリア駐在中、欧州の時計ブランドが再び台頭し始めた。

欧州販売会社ダンテ・グロッシ社長(左)のイタリア・ミラノの自宅にて(1994年)

欧州販売会社ダンテ・グロッシ社長(左)のイタリア・ミラノの自宅にて(1994年)

拠点のあったミラノはスイスから40キロほど。スイスや地元の時計ブランドが徐々に存在感を高めていました。イタリアは家族経営の小さな時計店がほとんどで、ショーケースに商品を並べてもらうのも大変です。高性能で値ごろ感があることを前面に打ち出したシチズンのマーケティングに限界を感じていました。

「このままではだめだ」。そう考えていた1993年、他社の腕時計の販売責任者だったダンテ・グロッシ氏(74)と運命的に出会いました。1年かけて口説き、欧州の販売会社社長に迎え入れたのです。当社の販促は当時どちらかといえば感覚的でしたが、グロッシ氏は1年単位で綿密な販促計画を立てました。

グロッシ氏のもと、マーケティング手法が抜本的に見直された。

各社がこぞって広告を投入するクリスマス期間はあえて宣伝をしません。宣伝費が下がる1月に大規模な販促をして、2月までに売り切るのです。またバカンスシーズン前の5月には手ごろなスポーツウオッチを販売します。

もう一つ驚いたのは「オラ・フェリーチェ(幸せな時間)」と銘打った販促です。低価格でシンプルな商品でもきれいな台に展示し、きれいなギフトボックスに入れてお渡しするのです。「ギフトボックスも含めて時計だ」とも言われました。こうした手法はどんな価格帯の商品でも同じでした。付加価値を高めて、買う人や使う人に幸せな気持ちになってもらうのです。

フランス駐在を経て98年に帰国。ただ、時計事業は苦境に陥っており、2002年には56年ぶりの赤字を計上した。

帰国後はヨーロッパ営業部に配属されました。当時は時計の完成品だけでなく駆動装置(ムーブメント)など部品の売り上げも減り始めていました。一方で欧州の高級ブランドのライセンス品は絶好調。当然のことながらシチズンブランドを今後どうするかという議論が社内で起こりました。グロッシ氏にシチズンブランドの強みをたたき込まれていた私は立て直しを主張。最終的に「時計事業の核はシチズンブランドだ」という結論に至りました。

直後の03年、当社は技術的に難しいとされていたフルメタルの電波時計を世界で初めて開発しました。この成功により、「シチズンブランドは常に革新的な技術を追求し続ける」と自信を持って言えるようになったのです。

今年3月にスイスで開かれた時計と宝飾の見本市でもシチズンらしさを打ち出せたと思います。時計本体が厚さ3ミリ弱の超薄型の光発電腕時計を発表しました。前評判を良い意味で裏切る挑戦的な製品で、手応えを感じました。

「シチズンとは何か」。若いころグロッシ氏に突きつけられ、自問自答し続けた経験がいまに生きています。

<あのころ>
 日本勢の好調の陰で、一時は廃業寸前まで追い込まれたスイスなど欧州の時計メーカーはひたすらブランドを磨き続けた。1990年代に入ると品質勝負の時代は転機を迎え、オメガなどスイスブランドの存在感が次第に増した。シチズングループは1946年3月期以来の赤字を計上した。
[日本経済新聞朝刊2016年4月19日付]

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