『痴人の愛』を歩く 樫原辰郎著映像の世界から作家を見直す

この本は、谷崎潤一郎の代表作『痴人の愛』の舞台となった街とその時代を丹念に追いながら、谷崎文学の確立の真髄を探る力作である。といっても、研究論文のような堅苦しいものではない。映画監督の著者ならではの映像的な描写や風景に関する逸話などが楽しく、『痴人の愛』につながる蘊蓄(うんちく)を味わう文学散歩のような趣である。譲治がナオミを見いだした浅草。一緒に住むための家を見つけた大森。ナオミのコケティッシュぶりが発揮される鎌倉。現在の姿と小説の場面が重なり合い、また読者である自分の記憶とも響きあう。

(白水社・2200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

昨年、山田詠美が『痴人の愛』のオマージュとして男女を入れ替えて現代の恋愛を描いた『賢者の愛』という作品が記憶に新しい。『痴人の愛』は、奔放なナオミと、翻弄される譲治のキャラクターが際立ち、イメージを多角的に広げる余地があるところも大きな魅力だろう。この本は、そのキャラクターを裏付ける、各人のモデルとなった人物の逸話がふんだんにちりばめられている。リアリティーがあるからこその魅力なのだということを再認識できるのである。

そして最大の眼目は、谷崎と映画の関わりについて詳細に検証されている点だろう。小説の中の2人が映画を楽しんでいることは記憶にあるが、それがどんな内容の映画で、どんな意味を持つのかまでは考えたことがなかった。また、映画作りに関しても、谷崎が自ら脚本を書き、撮影現場に立ち合うなど、かなり積極的に関わっていたということを初めて知った。谷崎の文学作品は、『春琴抄』や『細雪』など、何度も映画化されている。どの作品を読んでも色彩が鮮やかで映像的なので、映画化されるのもよくわかる、と思っていた。だが実は、映画に関わったことで映画的な手法が小説にも生かされたのだ、という著者の観点が新鮮である。映画の歴史を詳細に辿(たど)った上での考察は、圧巻だった。

谷崎は、19世紀的な小説を深く研究しながら長編小説執筆を模索するかたわらで、大活という映画会社に呼ばれた。そのことを「谷崎はもともと、方法論に自覚的な作家である。大活での脚本執筆が、小説に影響を与えなかったとは思えない」と書く。句読点をほとんど用いず、一気に語りかけるような実験的な文体の『春琴抄』など、谷崎は確かに方法論に自覚的だったと私も思う。その方法を探るとき、文学的側面だけに目が行きがちだが、映像の世界の人からの目が入ることで、新たな光を得、新たな顔が見えてきた。

(歌人 東 直子)

[日本経済新聞朝刊2016年4月17日付]

『痴人の愛』を歩く

著者 : 樫原 辰郎
出版 : 白水社
価格 : 2,376円 (税込み)

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