ゼロヴィル スティーヴ・エリクソン著
映画オタクの夢の謎に広がり
普通、人は映画を実人生のメタファーとして見る。映画に描かれた人生や恋愛を「自分もしてみたい」と憧れる。しかし、映画で作られたイメージが現実を完全に侵食していたら、我々は映画『マトリックス』のように仮想現実の世界を生きていることにならないか?
本書の主人公ヴィカーは、まさに映画という仮想現実世界を生きる者である。カルヴィン主義の厳格な父に育てられ、神学校で教育を受けた彼は、初めて映画を見てからその世界にのめり込み、父に反抗してハリウッドに出る。スキンヘッドの頭に映画『陽のあたる場所』の一場面を刺青(いれずみ)し、その作品名を間違えた相手にはブチ切れる。恋愛には興味なく、人と正常な会話が成り立たず、侵入した泥棒と映画談議に花を咲かせるなど、最高に愉快なキャラクターだ。
ヴィカーは1969年に24歳でハリウッドに来て、80年代前半までをおもにそこで過ごす。反体制文化やパンク音楽などの波もかぶるものの、映画以外のことにはほとんど関心を示さない。新作旧作、さまざまな映画に触れつつ、可笑(おか)しなコメントを繰り返す。映画ファンなら、自己の映画体験を振り返りつつ読む面白さがあるはずだ。
奇妙な言動で周囲をイラつかせながらも、ヴィカーは映画に関する豊富な知識を認められ、やがて映画編集の仕事に携わるようになる。そして編集次第でまったく違った物語が語られることや、潜在意識に作用するコマを忍び込ませることを学ぶ。「すべてがリセットされた」という227章から、ゼロへと章の数が減っていく後半部分は、彼がその仮想現実世界(マトリックス)の秘密を追究し、操作する側に回ろうとする物語だ。類い稀(まれ)な幻視力(ヴィジョン)の持ち主である彼は、編集によって特異な映画を作るとともに、映画全体に埋め込まれた秘密も知る。彼が映画を見ると必ず見る、ある夢の謎が次第に解き明かされ、彼に取り憑(つ)く旧約聖書の「子殺し」のイメージともつながっていく。
『黒い時計の旅』や『Xのアーチ』などの作品で、欲望や妄想の複雑な絡みを描いてきたエリクソン。個人の欲望や妄想がいかに現実を変えてしまうかを、鮮烈なイメージとともに提示し、読者を魅了してきた。本書も映画を題材としながら、実は映画誕生以前から人間を縛ってきた宗教などのシステムを追究する。それに対してヴィカーが一矢報いる結末は感動的だ。映画オタクをめぐるユーモアにあふれた作品であると同時に、壮大な広がりを持つ総合小説である。
(翻訳家 上岡 伸雄)
[日本経済新聞朝刊2016年4月3日付]
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