暗黒の大陸 マーク・マゾワー著
欧州の冷酷な真実を精緻に語る
いまヨーロッパは、深い苦悩の中にある。昨年11月のパリに続いて、今年の3月にはブリュッセルでも凄惨なテロが発生した。押し寄せる大量の移民や難民に立ちすくみ、ヨーロッパはその寛容さを失いつつある。また、極右と極左が力を増す中で、政治の分極化が民主主義を衰弱させている。ヨーロッパは、自らが掲げてきた理念を失おうとしているのか。
そのような現状を理解する上で最適な一冊が、気鋭の歴史家マーク・マゾワーによる本書である。20世紀のヨーロッパの歴史を概観する本書は、20世紀末の1998年に刊行されたものである。ところが、特筆すべきこととして、18年前の執筆当時よりも現在の方が、本書に書かれている内容がよりいっそうヨーロッパの現状を鮮やかに説明している。それはマゾワーが予言者だからではない。巨大な歴史の潮流をきわめて適切に理解しているからだ。
多くの優れた歴史家がそうであるように、マゾワーもまた歴史の冷酷な真実を、その虚飾を排して露呈させる。すなわち、20世紀のヨーロッパにおいて、いかに民主主義が脆弱で、人権が無視されて、人種差別が深く浸透していたのか、という歴史である。それにも拘(かか)わらずヨーロッパは、「文明的な優越性の感覚を無傷で維持する」ことに固執し、また「自己欺瞞(ぎまん)の能力は衰えなかった」と、マゾワーは批判する。
マゾワーは冷戦後の世界についても、残酷な真実を明らかにする。すなわち、「一九八九年の真の勝者は民主主義ではなく資本主義」であったのだ。
人々の希望は、置き去りにされる。「完全雇用は終わり福祉削減が始まっている」のに加えて、「金融市場のグローバル化によって、国民国家が行動の自律性を維持するのはますます難しくなった」のだ。
現在ヨーロッパが直面する危機は、ヨーロッパが擁護してきた麗しい価値を損なうものである以上に、「暗黒の大陸」としてのヨーロッパの地下水脈に流れる非民主主義的で、非人道的な要素が噴出したものとして、理解すべきなのだ。他方、マゾワーはそれを乗り越えようと格闘するヨーロッパの人々の努力も見逃さない。
誠実に真実を語り、公平に史実を綴(つづ)るマゾワーの歴史家としての力量は、イギリス人の歴史家の中でも卓越している。極めて精緻に書かれた、視野の広いこの名著を、優れた訳文によって読める意義は限りなく大きい。現代ヨーロッパを理解するための必読書である。
(国際政治学者 細谷 雄一)
[日本経済新聞朝刊2016年4月3日付]
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