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日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)創業時のメンバーで、3代目社長を務めた大河原毅氏の「仕事人秘録」。米国流のロードサイドから駅裏へと出店戦略を変えたことで、運営が軌道に乗ってきました。

 入社半年で店長から営業部長、それから半年後に取締役に。

出世でしたが、私より上の人たちがいなくなったからでもありました。本当は独立してお店を持ちたかったのですが、諦めました。ただ、大株主の三菱商事にはこんな生意気なことを問いただしました。「私は平取(締役)のままで終わるのですか、そうだったら今、はっきりと言ってください」。三菱商事の関連会社ではプロパーの人間は平取止まりだと言われていたからです。三菱商事からは「そんなことはない。ちゃんとやったらもっと上にいける」。その言葉を信じました。

 神戸での成功で追い風に乗る。

北海道では地元の伊藤組に加盟店になってもらった。札幌中央店のテープカット(左から2人目が同社社長 伊藤義郎氏、3人目が本人)

北海道では地元の伊藤組に加盟店になってもらった。札幌中央店のテープカット(左から2人目が同社社長 伊藤義郎氏、3人目が本人)

4号店となる神戸のトーアロード店は決して一等地ではありませんでしたが、感度の高いお客様に支えられて軌道に乗りました。そこで米社が主張するロードサイド立地から駅裏作戦に戦略を転換したのです。成城学園駅、鎌倉駅、田園調布駅はにぎわいのない側に店を出しましたが、どれも好調な成績です。

1973年12月に東京・赤坂に100店目の店を出すまでになり、その開店セレモニーには「どうにもとまらない」などが大ヒットした歌手の山本リンダさん、そしてデビューしたての山口百恵さんらがセレモニーに花を添えてくれました。思い出深い出来事です。私は30歳、常務になっていました。

お祝いパーティーでは、日本マクドナルド創業者の藤田田さんからこんなお言葉をいただきました。「マクドナルドはケンタッキー・フライド・チキンには絶対に負けない。唯一、負けているのは私と大河原君の年の差だけだ。彼は若い。本当ならマクドナルドで働いているべき人材だ」。会場は爆笑の渦です。

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