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日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)創業時のメンバーで、3代目社長を務めた大河原毅氏の回顧録「仕事人秘録」。10話目の今回は今の「赤いジャンパー」や店舗展開の原点を振り返ります。

 逆境の船出でも夢を語り合っていた。

米国研修の出発前のことです。店の営業を終えて1号店の近くに借りていたアパートで仲間といっしょにどうすればお店が繁盛するかをよく議論しました。風呂に熱めのお湯を張り、その中に一升瓶を突っ込んで熱燗(かん)にします。酒を酌み交わしながら「やはり立地だろうか」「米国のサービスだからもっと若者がいるおしゃれな街がいいのか」などみんなで意見を述べ合いました。

そしてこのような話をしてみんなを鼓舞しました。「この仕事が成功すれば、みんなでハワイの海の見える場所でマティーニを飲もう。それもタキシード姿で」。夢は実現しました。あの時は本当に赤貧生活で大変でした。でも、いつも「一番になろう」と言っていたのを覚えています。

近所の衣料品店でケンタッキー・フライド・チキンのコーポレートカラーでもある赤いジャンパーを見つけて制服にし、左胸には白いマジックで「We're No.1」と書いて着ました。今ではこれが原型となりレッド・ジャンパーとして定着しています。

 1号店は約半年で撤退を余儀なくされた。

初めて手応えを感じた神戸・トーアロードの店の前で(左端が本人)

初めて手応えを感じた神戸・トーアロードの店の前で(左端が本人)

ロードサイド型の店舗が不振だったので商店街に出してみようということになりました。神戸・三宮近くのトーアロードに1971年4月に出すことにしました。撤退した1号店の器具や看板の一部をトラックに積み、神戸まで搬送です。紅白のペンキも私たちで塗り、極力お金を掛けない節約出店です。

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