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日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)創業時のメンバーで、3代目社長を務めた大河原毅氏の回顧録「仕事人秘録」。連載9回目は本場のフライド・チキンを学ぶため米本社があるケンタッキーに渡ったときの話です。

 苦戦の1、2、3号店に後ろ髪を引かれつつ米国研修へ。

苦戦の日々は続き外食専門誌にこんな文章が載ったのを覚えています。「米国からいろいろな外食企業が日本にやってきて、成功を収めていくだろう。ただしケンタッキー・フライド・チキンを除いては」。しかし私はそんな批判は気にせず、本場のフライド・チキンをきちんと勉強しようと渡米を決意しました。1971年1月のことです。所持金は500ドル(当時のレートで約15万円)だけ。飛行機を乗り継ぎ米本社のケンタッキー州ルイビルでの生活が始まります。

当時の米本社内は酒造会社のヒューブラインから買収の申し入れを受けていて、地に足が着いていませんでした。研修をしてくれる余裕などとてもありません。ある金曜日の午後3時ころ、社内のホールに従業員が集められました。そこに登場したのは社長のジョン・Y・ブラウンさんです。壇上に立ちこう話し始めました。「ヒューブラインに身売りはしない。安心して仕事に励んでくれ」。みんな抱き合って喜んで、私もその輪に巻き込まれたのを覚えています。

ところがその数時間後、彼は売却合意を発表したのです。彼の側近でもあり私の教育担当のパット・ゴーマンさんは真っ赤な顔をして私を見るなり「あいつ(ブラウンさん)はどこにいるか。ぶん殴ってやる」。一介の研修生が知る由もありません。

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