変わりたい組織と、成長したいビジネスパーソンをガイドする

会員登録をすると、編集者が厳選した記事やセミナー案内などをメルマガでお届けしますNIKKEIリスキリング会員登録最新情報をチェック

日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)創業時のメンバーで、3代目社長を務めた大河原毅氏の「仕事人秘録」。今回はKFCの日本法人に転職したときの話です。

 万博でのケンタッキー・フライド・チキンは大繁盛した。

当時、運営していたのはノウハウがあったロイヤルでした。ちょうどその時、水面下では三菱商事が海外企業の参入規制の撤廃をにらみ、その数年前から米ケンタッキー・フライド・チキンと合弁会社の設立交渉をしていました。三菱商事は「ラーメンからミサイルまで」を標榜していたころです。飼料、養鶏、そしてケンタッキー・フライド・チキンとなれば垂直統合になります。交渉はまとまり万博開催中の1970年7月4日、日本法人が誕生します。米国の建国記念日でした。

私はまだ大日本印刷にいましたが、万博の営業が一段落したので霞が関ビルに出入りし外資系企業の取り込みに奔走していました。実績を上げ、海外駐在の話も舞い込んできました。そんなある時、部長の給料袋の中身を見てしまったのです。テニスコートやマントルピースのある家という夢はとてもかなわない現実を思い知り、独立を意識するようになりました。

 日本KFCに誘われる。

日本KFC生みの親の1人、ロイ・ウエストン同社元名誉会長

展望レストランで商談したロイ・ウエストンさんから「来ないか」と。しかし三菱商事の一部から横やりが入ります。「万博の営業時代に仕事を奪っていったヤツだ」というのです。ここで助けてくれたのが三菱商事で米社との合弁交渉を担当した相沢徹さんでした。「それくらいのヤツがいい」と逆にウエストンさんに推薦してくれたのです。

新着記事

Follow Us
日経転職版日経ビジネススクールOFFICE PASSexcedo日経TEST

会員登録をすると、編集者が厳選した記事やセミナー案内などをメルマガでお届けしますNIKKEIリスキリング会員登録最新情報をチェック