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日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)創業時のメンバーで、3代目社長を務めた大河原毅氏の「仕事人秘録」。今回はいよいよ社会に出たころのことを振り返る。

 大学を出ても就職のあてはなかったが、親戚の紹介でその年(1966年)の6月にプラント輸出の関連団体の日本プラント協会に入ることができた。

当時のプラント協会は日本の重厚長大メーカーがプラント事業の国際入札に臨むための現地調査や金融機関などと意見交換する組織でした。場所は有楽町のザ・ペニンシュラ東京がある当時の日活国際会館(日活ビル)です。事務所近くでは学生と機動隊が頻繁に衝突していました。

新米の私の仕事は各社の首脳が集まる会議の資料配布です。「喧嘩(けんか)太郎」と言われた三菱重工業の牧田與一郎さんは、とっても怖い方だと言われていたのですが、資料を渡すと「ありがとう」とか会議が終わると「ご苦労さま」と私のような者にも丁寧に声を掛けて下さいました。他の出席者も極めて紳士でした。

一方、事務レベルの会議に出席する各社の人たちは「おい、たばこを買ってこい」「雀(じゃん)荘を予約しておけ」などと邪険に扱われました。自分なりに「この差は何なんだ。こんな人たちもトップに立つと紳士になるのか」と。首脳が集まる会議では皆さんの白髪の旋毛(つむじ)を見ながら「どうすればこのような立ち振る舞いができるのか」と考えていましたね。

 プラント協会でサラリーマン社会の悲哀を垣間見る。

プロパーの先輩の結婚式で上司がこんなスピーチをしたのです。「新郎は将来、大変優秀な課長になるでしょう」。要するに部長以上は通産省からの出向者や天下りで占められていたのです。

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