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ひとりの記憶 橋口譲二著 人生と記憶に誠実に向き合う

2016/3/20付 日本経済新聞 朝刊

戦前から戦中にかけて、異国に渡った日本人たちの多くは戦後、祖国・日本を目指して引揚(ひきあ)げ船に乗った。しかし、すべての日本人が帰国したわけではない。自らの意志で日本に戻ることを選択しなかった、あるいは望んでも戻れなかった日本人たちもいた。彼らがなぜその土地に残ったのか、そしてその後、その土地でどのような人生を歩んできたのか。本書は、写真家である著者が1994年から20年の間に、インドネシア、台湾、サイパン、ポナペ、韓国、中国、ロシア、キューバで出会った10人の日本人たちの静かな語りの記録だ。

(文芸春秋・1700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

「日本はどんな存在ですか?」

著者の問いかけに、彼らは様々な表情を見せる。日本にいる妹たちには迷惑をかけられないとロシアで静かに過ごす男性は、この国のことを「大嫌いだ」と言い放つ。インドネシアの元残留日本兵は、日本に戻らなかったことを、「後悔をしているけど後悔しても間にあわない」という。ポナペに生まれ育った女性は、日本で25年間過ごした後、家族で再びポナペに戻る選択をした。

日本に戻らない理由も、日本に対する思いも違うが、彼らが今を生きる国で、それぞれのときを刻んできたことだけは確かだ。そして、戦後50年以上経ても彼らは日本語を忘れてはいない。言葉は不思議だ。遠く離れた土地で聞く方言が、たちまち、彼らの日本での日々をよみがえらせてくれるのだから……。

海の向こうの日本人たちの人生に戦争は少なからず影響している。だが、この作品では戦争を深く掘り下げてはいない。著者はひとりひとりの人生に、誠実に、丁寧に向き合うことに徹している。

記憶は、記録に残さなければ消えていく。しかし、残された時間は限られている。戦争体験者の取材を続ける上で痛感させられる現実だ。

著者が取材にかけた20年という時間は決して短くはない。彼らの現在にはふれられてはいないが、存命でもかなりのご高齢だろう。取材を終えた後も、著者のなかにはきっと、彼らの存在があり続けたのだろうと想像する。焦りもあったはずだ。それでも、戦後を異国で生きた日本人の記憶を再現するために、この20年は必要な時間だったのだと思う。

各章の最後に現れるポートレイトは、その土地の光、匂い、音、息づかい、空気が、海の向こうを生きた日本人たちの体中からにじみ出ているようで胸を打つ。著者にしか描けない記憶のカタチがそこにある。

(ノンフィクションライター 城戸 久枝)

[日本経済新聞朝刊2016年3月20日付]

ひとりの記憶 海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち

著者 : 橋口 譲二
出版 : 文藝春秋
価格 : 1,836円 (税込み)

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