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その姿の消し方 堀江敏幸著 無名の詩人探す旅に豊かな光

2016/3/20付 日本経済新聞 朝刊

一九三八年六月、何の変哲もない建物を写した絵葉書(はがき)の裏にきっちり十行からなる謎のような「詩」を書いて、北フランスに住む女に送ったフランス西南部の男がいた。半世紀以上経(た)った頃、パリの蚤(のみ)の市で当の絵葉書を手に入れた「私」は、アンドレ・Lという文学史ではまったく無名の「詩人」が女に送ったほかの絵葉書を探し始める。するとやはり同じ絵葉書に十行で書かれた他の詩も見つかって「私」はますますその「詩人」に惹(ひ)かれてゆく。探索は続き、Lが「ルーシェ」らしきことが判明しただけでなく、有名写真家によるポートレートも手に入った。男は会計検査官だった。

(新潮社・1500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

だが、なぜ「詩」を書いていたのか。相手の女は誰なのか。詳細はわからない。「私」は男の孫娘や息子の友人夫妻などと知り合い、親交を深めながら、「詩」と作者の謎を解こうとする。詩の区切りは不可解で意味もいかにも謎めいている。一部を引けばこんな具合だ。

「葡萄(ぶどう)酒の点眼薬を。容器/はおおかみの腹の皮で作/られた柔らかい袋に入っ/ていて。一日数回数滴の/点眼で君の瞳は深海魚の」

今までの作品でもしばしばそうだったように、ここでも作者は日仏両語の間にひそむズレにおもむろに光を当てることで、「詩」そのもの、物語そのものを読むことがどういうことかを浮かび上がらせようとする。翻訳不可能と思われる二つの言葉の間をたゆたいながらいくつもの仮橋(かりばし)をかける精神の冒険。その過程はスリリングで知的興奮に満ちているが、本作品の魅力はむろんそれだけではない。深い思索を経て紡ぎ出される言葉や、饒舌(じょうぜつ)とは無縁の節制によって生まれる彫琢(ちょうたく)された文体からふと溢(あふ)れ出る豊かな情感とユーモア。それはまさに読者を再読にいざなう大きな要素にほかならない。

さらにこの小説は人生の悲しみを知る読者にそれでも生き続ける勇気を与える。その理由は二つある。

一つは未知の詩人の探究の果てに、「いま、このとき」をどう生きて、命あるひとに対してどう振る舞うかという覚悟を「私」が示すからであり、もう一つはパリでも東京でも、作品に登場する土地がもつ空気感が絶妙に描かれることで、生の時間が豊かな光を放つからである。日常の何気ない光景、日々の食事、人との出会いやつき合いや交わされる言葉。それらすべてが私たちの生を根柢(こんてい)から支えていることを作者は小説のそこかしこで示している。

(明治大学教授 高遠 弘美)

[日本経済新聞朝刊2016年3月20日付]

その姿の消し方

著者 : 堀江 敏幸
出版 : 新潮社
価格 : 1,620円 (税込み)

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