開発なき成長の限界 アマルティア・セン、ジャン・ドレーズ著インドになお存在する断絶とは

インド出身でノーベル経済学賞に輝いたアマルティア・センは、これまでにもジャン・ドレーズとの共著で『飢餓と公共活動』『インドの開発』などを発表してきたが、本書も共作のひとつである。彼らの立場は、自由化後のインドの目覚ましい経済成長を礼賛する人たちのそれとは明確に異なる。人間の「潜在能力」を拡大させるような開発こそが人間の基本的自由の本質だと捉えているからである。

(湊一樹訳、明石書店・4600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

確かに、近年のインドの経済成長は国内総生産(GDP)の拡大という面では目覚ましかった。センとドレーズも、経済成長を否定しているわけではない。インドに欠けている社会的インフラや物的インフラ拡大の財源が生まれる可能性が出てくるからだ。彼らが問題にするのは、インドにはなお「階級」「カースト」「宗教」「ジェンダー」の間の格差といった「揺るぎない断絶」が歴然とあり、成長の恩恵が国民の間に不平等にしか行き渡らないことである。

経済学の教科書でよく使うジニ係数でみると、インドの不平等度は中国やブラジルなどとさして変わらないようにみえるかもしれない。しかし、センとドレーズは、インドの貧困層の所得水準があまりにも低く、「教育」「保健医療」「公共設備」「環境保護」など潜在能力の拡大に不可欠なものが欠落し、特権階級との巨大な格差はジニ係数では捉えられないと主張する。

2011年時点でインドの半数の世帯にはトイレがないという。「特権階級に属する人たちの想像力というのは、現代のインドに暮らす国民の半数をあまりにも劣悪な不平等から解放するだろう水洗トイレなどよりも、宇宙旅行の可能性のほうにはるかに強く引きつけられているようである」と手厳しい。

彼らは社会的不公正を糾弾するだけにはとどまらない。例えば、ケーララ州など一部の先進的な地域で、不利な立場にある集団が潜在能力の拡大につながる教育、保健医療、社会保障などの権利を勝ち取ってきた事実を示す。

だが、彼らが嘆くのは、「民主主義」の国であるはずのインドで、それらの問題が主要なメディアにほとんど登場しないことなのである。「経済成長」と「人間の潜在能力の拡大」の間に見られる双方向的な関係こそ、本書全体を貫く核心だが、いまだにわが国でGDPの額を政策目標にする動きがあるのをみると、彼らのような問題意識が希薄なのではないかという疑問すらわいてくる。示唆に富む力作である。

(京都大学教授 根井 雅弘)

[日本経済新聞朝刊2016年3月20日付]

開発なき成長の限界――現代インドの貧困・格差・社会的分断

著者 : アマルティア・セン, ジャン・ドレーズ
出版 : 明石書店
価格 : 4,968円 (税込み)

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