時計やパトカー 震災遺産、福島・富岡の「時」残す門馬健・富岡町役場主事学芸員

2016/3/11
異なる時間で止まった時計
異なる時間で止まった時計

窓ガラスが割れ、看板が剥がれ落ちた美容室。外壁にかかる電気式の時計は、午後2時46分で止まっていた。あの日――5年前の今日――は、いつも通り動いていたという。「地震直後の停電で止まったんだな」。私たちは、壁からそっと時計を取り外した。

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第1原発から距離10キロ

ここは福島県富岡町。北に10キロメートルも行けば東京電力の福島第1原子力発電所がある。東日本大震災で避難指示区域に指定され、今も町民の避難生活が続く。

このままでは、町に残る貴重な資料の数々が失われてしまう。町職員の私は危機感を強め、2014年6月に「富岡町歴史・文化等保存プロジェクトチーム」を立ち上げた。16人のメンバーは今、通常業務の傍ら、役場がある郡山市から車で約2時間かけて富岡に通う。これまでに民家に眠る写真や古文書など1万点と、時計など震災の傷痕を示す「震災遺産」約800点を収集した。

震災当時、地元紙の記者だった。取材で故郷や原発に対する被災者の複雑な思いを聞くうち、自分に何ができるのかと悩み始めた。

原発に賛成するわけじゃない。でも「反原発」と言えば済む。そんなに簡単なことでもない。是非を争う前に、知ることが必要じゃないか。

大学で歴史学を学び、研究者を目指したこともある私は日に日にそうした思いを強めていった。ついに13年に新聞社を退職。職員を募集していた富岡町に転職した。

富岡町では町史が1980年代から更新されていなかった。従来の町史は、70年代に稼働し始めた福島原発が首都圏にエネルギーを供給していたことなど中央との関係を強調する記述が目立つ。一方で、ここ30年余りの歴史が抜け落ちている。

この空白を埋めなければならない。そのためには資料を守る必要があると考え、まず町史に資料を提供した町民に片っ端から連絡を取った。古文書や写真など津波で汚れた紙類は真っ先に捨てられてしまう。可能な人には立ち会ってもらい、無理な人には許可を得て民家に入り、拾い集めた。

町を巡ると、いたるところに震災の様子を物語る「もの」たちも残っていた。これらも後世に伝えるべき資料と考え、収集を進めている。

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両親にグローブを渡す

たとえば薬局の電池式の時計は午後3時37分ごろで止まっていた。付近に津波の第2波が来た時刻とほぼ重なる。第1波では被害を免れた時計が、さらに大きな第2波で浸水したのだろう。相当強い横揺れで電池が外れたと思われるものや、縦揺れで床にたたきつけられたと推測できる時計もあった。

津波で骨格がひしゃげ、外板が剥がれ落ちたパトカーも保全した。震災から1カ月後に沖合で遺体が見つかった福島県警の増子洋一警視(当時41歳)と、今も行方不明の佐藤雄太警部補(同24歳)が乗っていたものだ。

震災当日、非番だった2人は沿岸部に向かう姿を目撃されており、おそらく町民の避難誘導の最中に津波に遭ったのだろう。パトカーはいったんは廃棄が決まったが「命をかけて自分たちを守ろうとした人のことを後世に伝えたい」という町民の訴えを受けて町が譲り受けた。

車内を洗っていると、グローブが見つかった。サイズから佐藤警部補のものかもしれないとご両親に見せると、静かに受け取られた。あの日の2人の行動を示すものを1つでも多く残したいと思った。パトカーは今、2人が勤めていた双葉警察署(旧・富岡警察署)の隣の公園に、海に向けて展示している。

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桜並木を3Dで復元

震災から5年を経た今年は、9日からいわき明星大学(福島県いわき市)で初めて、これらの資料を展示する町単独の企画展を開いている。

福島県富岡町役場主事学芸員の門馬健さん

会場には被災した富岡駅を3次元(3D)で仮想体験できるコーナーもある。建造物は資料的価値があっても安全確保や除染のために解体せざるを得ない場合も多い。そうした遺産を3Dシステムで、できるだけリアルに残していきたい。

このシステムでは、もう一つ実験を始める。富岡は桜の並木通りが有名で、5年前の3月11日も町のあちこちに4月に始まる「桜まつり」のポスターが張られていた。

桜並木を子どもたちは「桜のトンネル」として覚えている。3Dでトンネルを復元できたら、子どもたちが喜ぶのではないか。桜が満開になったら、撮影にでかけるつもりだ。(もんま・たけし=富岡町役場主事学芸員)

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