津波前の集落、後世に 気仙大工の息吹残る陸前高田
高橋恒夫・東北工業大教授
岩手県陸前高田市の今泉地区は、江戸時代に仙台藩領だった気仙郡の中心として栄えた。伝統的な木造建築を得意とする気仙大工が多くの家屋を造り、近年までその町並みが維持されてきた。しかし、5年前に起きた東日本大震災の津波により、全てが失われてしまった。私は今、消えた町並みを資料で後世に残すべく活動している。
地区との関わりは40年前に遡る。東北工業大学で日本建築史を専攻する私は、気仙大工とその建築を研究テーマに選び、フィールドワークの中心地である今泉地区に何度も足を運んできた。震災後も、翌4月には仙台市内の自宅から今泉地区に入った。
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新たな町づくりの陰で
そこで見たのは何もかも流され、変わり果てた町の姿だった。
私にできることとして真っ先に考えたのは、収集してきた資料を町の記憶の保存に生かすことだった。江戸時代から震災直前までの今泉地区の歴史を伝える貴重な記録が、私の手元には全て残っていた。
新たな町づくりが始まれば古い今泉地区の面影は失われ、忘れ去られてしまうだろう。それを残し伝えていくのが使命であるように思えた。以来、収集した資料の整理を始めた。
この地区の他にない特徴は、郡政を取り仕切った役職「大肝入(おおきもいり)」の屋敷が仙台藩内で唯一残っていたことだった。地区の中心にあり、町の象徴的な存在だった屋敷は、地元の人からは大庄屋と呼ばれ親しまれていた。
地区内を南北に走る街道は、階段状に4回直角に屈折させて敷設されていた。歴史上、何度も津波に襲われてきたにもかかわらず、大肝入の屋敷が災禍を免れてきたのは、このように折れ曲がった通りに沿って建つ民家が防いだためだ。
だからこそ、代々大肝入を世襲してきた吉田家は、災害のたびに私財をなげうち、町並みの復興に尽力したという。
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家の間取りや写真まで
家々の貴重な江戸時代の間取り図も残されていた。藩主が地区を訪れる際には大肝入の屋敷に宿泊したが、家臣らは一般の町家に泊まった。どの家に何人泊まることができるのか割り振りを決めるため、詳しい間取り図が書かれたと思われる。
過去の調査では、大肝入の屋敷をはじめ、街道沿いの住宅1軒1軒の実測を行っていた。そのデータに基づき、かつての町の全体図を記したマップを作成、さらに各家の間取りや外観の写真なども全て記録していた。
これを基に、私が指導する学生と19世紀初期の地区の模型を作った。2000年にも制作して市に寄贈していたが、津波で流されてしまった。再度、400分の1の縮尺で南北1キロ、東西500メートルの区域を再現した。
復興計画を策定する実行委員会ができると、私は今泉地区の町並み分科会の委員として参加した。自分の資料を生かし、今泉地区の歴史を継承した形で町づくりをしてもらいたいと訴えてきた。
だが、受け入れてもらうのはなかなか難しかった。現代の都市計画からすれば、いくつもの曲がり角は不合理でしかない。地面も8メートルほどかさ上げされる計画になった。町が生まれ変わった後は、特有の屈折した道路の痕跡すら見いだすことは困難になるだろう。
ただ、5年がたった今も、町は更地のまま。新しい町づくりが本格的に動き出す時期も見通せないでいる。
震災後、地区の住人から何度か「自分の住んでいた町の写真がほしい」と依頼された。多くの住人と私は顔見知りだ。どの人も、手元に何も残っていないのだと思うと胸が痛んだ。データから抜いた写真を手渡すと、涙ながらに我が家や町の思い出を語った。私の集めた資料を「地域の宝だ。子孫に引き継ぎたい」と言ってくれる人もいた。
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大肝入の屋敷を復元へ
昨年ようやく、それらの整理を終え、資料集として刊行した。隣り合う家々を連続写真のように並べて、町並みを再現したページもある。酒屋さんの隣にはこの人の家、この人の家の隣には理髪店というように、文献の中だけでも今泉の町を保存したかった。
幸い、県の文化財である大肝入の屋敷は復元することが決まった。津波で流されたはり材を集めて、保存している。資料集の売り上げは全額、その費用にあてる。私の資料があれば、以前とほとんど同じ形で建て直すことは可能だ。地区の象徴が一刻も早くよみがえることを願っている。
[日本経済新聞朝刊2016年3月10日付]
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