被災地の苦しみ伝え、憤り歌う 東北人フォーク
「花は咲けども」携え全国回る
私が所属するフォークソンググループ「影法師」は昨年、結成40年を迎えた。メンバーは入れ替わっても、ずっと生まれ育った山形県長井市を拠点に活動し、東北人の思いを歌に託してきた。
メンバーは横澤芳一(ヴォーカル・ギター)、遠藤孝太郎(バンジョー・ギター)、船山正哲(マンドリン)、そして主に作詞とベースを担当する私の4人だ。
長井市は人口3万人弱の小さな町で、農業と電子部品の製造業が雇用の場だ。若者には退屈な町。それでも、長男は家を継ぐのが当たり前だった時代、容易に地元を離れることはできなかった。
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故郷はゴミ捨て場か
フォークソングは、そんな私たちの心をとらえた。若者が集まる勤労青少年ホームのサークルで仲間と出会い、農業や事務仕事の傍ら音楽活動をするようになった。初期には専ら、町のいいところを考えてみようと呼びかけた。長井の風景の美しさを歌った「わが街より」は、東北の片隅で生きている自分たちへの応援歌でもあった。
ところが、思いと時代はどんどん離れていった。バブルへ向かう80年代半ば、沸き立つ都会と疲弊する地方の格差は広がる。この熱から覚めれば、人々はきっと理想の共同体を求めるはずだ。85年にそんな思いで「美しい村」という曲を作ったが、相手にされなかった。
私たちの歌を決定的に変えたのは、91年の「白河以北一山百文」だった。東北自動車道が完成し、首都圏のゴミが東北に次々に押し寄せた。私たちのふるさとは単なるゴミ捨て場なのか。そんな憤りを長井弁で訴えた。
タイトルは戊辰戦争の際、官軍の兵士が言ったとされる言葉に由来する。白河の関以北の地は一山百文の価値しかないという意味だ。流入するゴミは、その頃から続く中央と東北の関係を表しているように感じた。声を上げなければ変わらない。以来、社会や政治を題材に、東北人の怒りを歌にするようになった。
そして2011年3月11日、東北を大震災が襲った。私は山形県川西町の勤務先にいた。濁流が隣の宮城や岩手の田畑、家、車を容赦なく飲み込んでいくのを避難した食堂のテレビでぼうぜんと見ていた。その翌日、福島の原発事故が起こった。
また東北が苦しみを背負うのか――。「白河以北一山百文」を作ったときと同じ憤りと、歌い続けても何も変えられなかった無力感が押し寄せた。何より、自分たちへの怒りが大きかった。実は震災の約10年前、私たちはテレビで「白河以北一山百文」を歌う機会があった。その際、テレビ局側に「3番は歌わないでください」と言われた。
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「原発」歌わず悔い
3番の歌詞はこうだ。「原発みたいな/危ないものは/全てこっちに/押しつけといて」(標準語訳)。私たちは素直に従い、3番を削って演奏した。あのときなぜ、自分たちの思いをきちんと歌わなかったのか。事故が現実になって悔いた。
もう一度、歌いたい。しかし、直接の被災者でもない私たちにその資格はあるのか。被災者を余計に苦しめはしないか。悩みに悩んだ末、13年6月に完成したのが「花は咲けども」という曲だ。
「花は咲けども/花は咲けども/春を喜ぶ/人はなし」。ふるさとを追われ、終わりの見えない災禍に苦しむ人々の思いをこめた。復興のニュースばかりが伝えられることに対し、誰かが「それは違う」という必要があると思った。
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「これは私たちの歌だ」
歌う前に現場を見ておかねばならないと思い、知人の協力を得て、福島県浪江町を訪ねた。そして、山形県に避難している福島の人々の前で歌った。批判も覚悟したが、涙とともに返ってきたのは「これは私たちの歌だ」という言葉だった。
他の歌手も歌ってくれるようになり、英語版も生まれた。この歌を携え、農閑期の冬には全国を回る。バンに機材を積み、メンバーが運転し、九州まで向かう。東京より西に行くと、震災の記憶はさらに薄れる。まだまだ終わっていない現実を多くの人に伝えていきたい。
(青木文雄=バンド奏者)
[日本経済新聞朝刊2016年3月3日付]
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