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モナドの領域 筒井康隆著 宗教の議論と犯人探しが融合

2016/2/21付 日本経済新聞 朝刊

河原で女の腕が発見される。そして公園では脚が。バラバラ殺人か。しかし警察の捜査は難航する。それもそのはずだ。被害者は我々の住む、この世界の住人ではないのだから。不思議な出来事は続く。近隣のパン屋では女の腕そっくりのバゲットが積み上がり、美大教授の結野の肉体はGODと名乗る存在に奪い取られる。いったい何が起こっているのか。

(新潮社・1400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

八十歳を越えた筒井の最新長篇(ちょうへん)のテーマは、極めて現代的だ。神は存在するのか。神が唯一ならばなぜ複数の宗教が存在するのか。異なる信仰を持つ人々はなぜいがみ合うのか。だがこうした問いを、ジャーナリズムは正面からは問いかけられない。なぜなら現代のメディアでは、神の存在を前提とした議論は許されず、したがって記述は一面的でしかあり得ないからだ。

そこで文学の登場である。そもそも筒井はタブーへの挑戦を得意としてきた。性であれ人種差別であれ貧困問題であれ、彼は露悪的なまでの表現を追求し、寝た子を起こし続けてきたのだ。なぜか。いないことにされている人々や、ないことにされていることにこそ真実があるからだ。きれいごとや社会の思考停止を爆破し、世界を常識の外から見ることで読者に現実を突きつける。この彼の永遠の異化効果こそ現代日本文学の良心である。

そして今回彼の仕掛けた最大の異化効果は、神の視点の導入だ。宗教を金儲(もう)けの道具としようとした若者に制裁を加えた結野教授は法廷に引きずり出される。そこでの裁判官とのやりとりは、新約聖書をも彷彿(ほうふつ)とさせる。だがすべての宗教を越えた神、すなわちGODの言葉は、予想外なほど優しい。神は世界にあるすべてを限りなく愛し、無宗教な者までもが自然に感謝する日本の習慣に喜ぶ。「お前さんたちの国の、現在はやや廃れかけている習慣で、食事前と食後の『戴きます』と『ご馳走(ちそう)さま』、あれはいいねえ」。高度な議論が、この上なく平明な慈しみと謙虚さに帰着するところに筒井の叡智(えいち)がある。

神学者アクィナスやライプニッツを引用しながら展開される議論と、犯人探しやGODの運命を巡って繰り広げられる、息もつけぬほどの物語の面白さが本作では見事に融合している。電車でこの作品を読んでいて、僕は何年ぶりかで駅を乗り過ごしてしまった。この勉強量と小説家としての技量の双方を持つ小説家は世界にも稀(まれ)だろう。筒井さん、頼むからこれが最後の長篇だなんて言わないでくださいよ。僕らにはまだまだあなたが必要なんですから。

(早稲田大学教授 都甲 幸治)

[日本経済新聞朝刊2016年2月21日付]

モナドの領域

著者 : 筒井 康隆
出版 : 新潮社
価格 : 1,512円 (税込み)

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