迷子たちの街 パトリック・モディアノ著亡霊のような過去と向き合う

本書『迷子たちの街』がフランスで刊行されたのは、一九八四年。すでに三十年も前の作品だが、ミステリの骨格を残しながら次の展開を模索していたモディアノの、いわば移行期における佳品である。同時にまた、現在の彼の立ち位置を理解するうえでも欠かすことのできない一書だ。

(平中悠一訳、作品社・1900円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

ミステリの風味は、アンブローズ・ギーズと名乗る語り手が、イギリス人の探偵小説作家として登場する冒頭ですでに明らかである。七月の日曜日の午後、彼は日本の出版社と新しい契約を交わすため、待ち合わせ場所に指定されたパリにやってくる。

パリは彼にとってはじめての街ではなかった。ほぼ二十年ぶりの再訪である。正確には、帰国と言ってよかった。ギーズの本名はジャン・デケール、パリ郊外生まれのフランス人だったが、二十歳のとき、ある事件に巻き込まれて仏国籍を捨て、異国に逃れなければならない羽目に陥った。仕事にかこつけてではあれ、彼はずっと避けてきた忌まわしい過去と、ようやく向き合うことにしたのである。

ギーズことデケールは一九四五年生まれの三十九歳。巻き戻すべき過去は、だから一九六五年前後のことになる。デケールだった頃の彼と、ギーズとなった現在の彼のあいだを結ぶのは、当時を知る、生ける亡者のような人々だ。

猛暑のパリは、時空を超えた「ゴーストタウン」と化している。ひと気のない空虚な街にふさわしい亡霊たちの仕事はどこか曖昧でいかがわしい。モディアノの他の作品でも頻繁に登場する庭師や馬丁(ばてい)、自動車修理工に運転手、なにを扱っているのかわからない弁護士、そして映画関係者。

ホテルでもらった一枚の名刺と、十年前に編集者を介して届けられた手紙が、過去をたぐりよせる出発点となる。読者は語り手の過去を自身の過去として共有せざるをえなくなり、時間と記憶の海で船酔いに似た気分を味わう。そして、その奇妙な酔いが醒(さ)めないうちに、物語の外に放り出される。

読者は、とつぜん自分がひとりであることを悟って呆然(ぼうぜん)とする語り手の身体感覚と共振し、すでになくていまもある緩い時間のなかで、邦題のとおりみな迷子になる。原題はさびれた街とも、失われた街とも訳しうるものだが、冷たい汗をかいた手を取ってそこから私たちを救い出してくれるのは、モディアノがつぶやく楽音のような言葉だけである。

(作家 堀江 敏幸)

[日本経済新聞朝刊2015年12月13日付]

迷子たちの街

著者 : パトリック・モディアノ
出版 : 作品社
価格 : 2,052円 (税込み)