水中考古学 井上たかひこ著条約や保存の困難抱えた研究

米国のテキサスA&M大学海洋考古学研究所で修士号を取得した在野の水中考古学研究家による、同著者の単著としては5冊目の一般啓蒙書である。民間レベルにおいて、日本の水中考古学調査の芽を育て続けてきている著者に対しては、まずは最大限の敬意を表しておきたい。

(中公新書・800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

学術界を単純な二元論で区分するのは必ずしも適当ではないが、現在の世界の水中考古学の潮流を大きく2つに分けるとするならば、一方はユネスコが2001年に採択した水中文化遺産保護条約を中心とする路線である。21世紀からの新しい動きであるともいえる。同条約には二大原則があり、一つは「原位置保存の原則」で、沈没船やその積み荷などの引き揚げは禁止、水中の現場で遺物や遺構の調査を実施しなければならなくなっている。もう一つは水中文化遺産の「商業的利用の禁止」で、財宝引き揚げなどの活動はこれによりすべて国際法違反の悪行とされた。また、沈没船研究だけではなく渚(なぎさ)の漁具や海景も、条約では水中考古学の研究対象である。

他方の流れは、20世紀からの伝統を継承し、沈没船などの引き揚げこそが水中考古学であるという立場である。代表は著者の恩師の「水中考古学の父」ジョージ・バスで、同氏は「ユネスコの条約は現場を知らない官僚の作文」という厳しい意見も開陳している。この指摘にはもっともな部分もあり、本書でも触れられているトルコのウル・ブルン船など、引き揚げを禁止してそもそも研究自体が進展したのかという素朴な疑問は当然である。しかし、本書中で取り上げられている引き揚げ事例のほとんどは条約前の時代のもの、あるいは反条約派の研究者の手によるものという事実は指摘しておく必要がある。

このような意見の相違についての説明がないと、九州の鷹島沖で発見された元寇(げんこう)船が今もって「海底に保存されている」という記述をいぶかしく思う読者が出てくるかもしれない。日本に引き揚げの技術がない訳ではなく、条約未批准国といえども条約の原則や理念を無視できないような国際情勢になりつつあるという背景が大なのである。

ユネスコが引き揚げに慎重な理由には、無定見に引き揚げられ、適切な保存処理がされないまま朽ち果てる水中文化遺産が多数におよんでいるという現実もある。房総沖に沈む米国の蒸気船で、著者が調査を継続しているハーマン号の揚錨(ようびょう)機という貴重な文化財も、地元で引き揚げられてしまったことにより錆(さび)腐食が著しく進行する結果となった。

(東京海洋大学教授 岩淵 聡文)

[日本経済新聞朝刊2015年12月6日付]

水中考古学 - クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで (中公新書)

著者:井上 たかひこ
出版:中央公論新社
価格:864円(税込み)