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明治大正史(上・下) 中村隆英著、原朗・阿部武司編 危うい時代が「うまくいった」背景

2015/11/24 日本経済新聞 朝刊

2年前に他界した日本近現代経済史の重鎮の遺作である。平易な語り口でつづられる言葉はいずれも著者の生涯にわたる思索の結晶である。深く慎重な洞察の持つ意味をかみしめたい。

(東京大学出版会・各3000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

著者は明治大正期を「比較的うまくいった時代」と評価する。経済的にはこの時期の経済を均衡のとれた発展とみなしてきた著者の主張が再確認される。農民の副業と地方の特産物生産から生まれた在来経済が健全であり、近代産業は在来産業による雇用確保と外貨獲得の前提の上に発展したと言うのである。

また政治においても抑制のきいた自由主義と民主主義が機能したとみる。明治維新については決して単なる国家主義的な王政復古ではなかったことを強調する。明治憲法は時代の社会的・政治的制約の下で精いっぱいの民主性を保持しており、教育勅語などについても、小学生ならともかく自由で生意気盛りの若者たちは「馬鹿にしていただろう」と指摘する。

著者はこの時期を手放しでたたえているわけではない。昭和の危機への萌芽(ほうが)的な動きのあったこともまた強調される。周辺アジアへの対抗意識とその自主性を否定する傾向があり、軍部が次第に領土拡張意識を高めていった経緯も詳しく論述される。要するに、戦前期を国家主義一色で塗りつぶしがちな安易な俗流史観は否定されなければならない。しかし、時代の流れと地政学的位置を背景に、富国と強兵をともに意識せざるを得なかったこの時期の日本の、かじ取りの難しさと真正の危うさも無視しえない事実なのである。

本書の最大の魅力は長年にわたり考え抜かれた人物論にある。取り上げるあまたの人物の中で著者は西郷隆盛、福沢諭吉と伊藤博文に特に強い共感を寄せる。西郷は軍事と教育と農業を基礎に置いた取捨選択的な近代化を志向した。福沢は知識と精神の西洋化の必要性を唱える傍らで自由は不自由の中にあるとした。伊藤は時代の動きと日本の国際的地位を正確に把握していたことが強調される。

結果的にみて、この時代はこの3人の思想に沿って動いたといえるかもしれない。3人の抑制のきいた近代化主義と伊藤の国際感覚でこの時代はかろうじて「うまくいった」のである。著者は、明治大正期は優れた指導者を持ったことが幸いしたと述懐する。金融と情報による新たなグローバル化への対応に追われ、また地政学的な宿命として外交軍事の諸課題に直面する現在の日本において、この書の意味は極めて大きい。

(一橋大学名誉教授 寺西 重郎)

[日本経済新聞朝刊2015年11月22日付]

明治大正史 上

著者:中村 隆英
出版:東京大学出版会
価格:3,240円(税込み)

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