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聞き書 緒方貞子回顧録 野林健、納家政嗣編 研究と実務の有機的な結びつき

2015/11/9 日本経済新聞 朝刊

緒方貞子氏は現代の日本で最も著名な国際人であろう。1990年代を通して国連難民高等弁務官を務めたことで緒方氏は国際的な敬意と友情を得た。緒方氏自身による回顧や研究書もすでに複数存在するが、本書は氏がかつて教えた国際政治学者による聞き書であり、これまでの氏の生涯全体をカバーしている事に加え、研究と実務の関係についても議論がなされている点に特徴がある。

(岩波書店・2600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

本書を読めば、氏の難民高等弁務官としての活躍が偶然ではなく、それまでの蓄積の結果であったことが分かる。外交官を父と祖父に、母方の曽祖父に五・一五事件で暗殺された犬養毅首相をもつ氏は、戦後初期の日本で外交史を、アメリカの大学院で政治学を学び、満州事変に関する政策決定過程分析を博士論文とした研究者として出発した。

60年代末に日本政府の国連代表団に参加したことを皮切りに国連公使、国連人権委員会日本政府代表などを歴任し、国連外交の現場を経験していた。意思決定の手続きがある程度制度化されている国内政治と違い、国連外交は規則主義と人脈主義が入り交じる複雑な世界である。ここで活躍するのに政策決定過程の研究が大いに役立ったと氏は振り返る。

氏が難民高等弁務官に選ばれた背景には当時の日本の経済力への期待も当然あったろうが、それまで積み重ねられてきた氏の活動への評価もあったに違いない。しかし冷戦終焉(しゅうえん)後の地域紛争の続発は従来の難民政策の枠組みを大きく踏み越えることを求めた。氏は危険な現場に飛び込んでいく勇気と共に、国内避難民といった新たな概念を提示し、多数の利害関係者を説得して冷戦後の人道活動の基本枠組みを形成することに大いに貢献した。

この過程の中で氏がつかみ取ったのが「人間の安全保障」の概念である。この言葉に対してはその曖昧さを批判する研究者もいるし、途上国ではこの言葉を名目に内政不干渉の原則が侵されることへの警戒心も強い。氏もこうした批判を認識しつつ、「人の命を助けること」を国際社会の目標に設定する実践的なソフト・アプローチを表現する言葉として「人間の安全保障」の意義を強調する。

本書は緒方貞子氏の足跡を辿(たど)ることで、国際政治の舞台において研究と実務がいかに有機的に結びつき、重要な役割を果たしうるかを教える。実務家、研究者、そして国際社会に関心のある全ての人にとって大きな示唆を含んだ回想録である。

(京都大学教授 中西 寛)

[日本経済新聞朝刊2015年11月8日付]

聞き書 緒方貞子回顧録

著者:緒方 貞子
出版:岩波書店
価格:2,808円(税込み)

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