エクソダス症候群 宮内悠介著未来の火星に広がる心の闇描く

2015/8/18付

「湯の出ないバスタブ」「明滅する信号」「七人が暮らす六畳間」……宮内悠介の初長編『エクソダス症候群』は、こんな奇妙な言葉で始まる。精神科病院の患者が自由連想法で口にするフレーズ。それが随所に挿入されて、小説に絶妙のアクセントを与える。

(東京創元社・1700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 著者は、今もっとも注目される新鋭SF作家。デビュー単行本『盤上の夜』と第2作『ヨハネスブルグの天使たち』が、ともに日本SF大賞を受賞(大賞と特別賞)、直木賞にも2作連続してノミネートされる快挙で、一躍、時の人となった。

 書き下ろしの本書は、未来の火星が舞台。構想は、12年前、著者が早稲田の古いゲームセンターでアルバイトをしていた23歳の頃まで遡るという。

 作中の火星は環境改造が進んでいるが、まだ大気はなく、人間は高分子ポリマー製の巨大な泡(直径数百~2千メートル)の中で生活する。泡の数は1万を超え、推定人口は約60万人。物資が足りず、交通網の整備もままならないため、住民は赤い大地に馬車を走らせる。まるで開拓時代のアメリカ西部のような光景が幻想味をかきたてる。

 主人公は、火星で生まれ育ち4歳で父と地球に移住した若き精神科医カズキ。地球では、多剤大量処方とカウンセリングにより、あらゆる精神疾患が完璧に制御されているのに、突然なんの理由もなくみずから死を選ぶ“突発性希死念慮”が蔓延(まんえん)。それによって恋人を亡くしたカズキは、恋人の父親である担当教授に疎まれて大学病院を追われ、故郷に戻ることに。着任したのは、亡父がかつて勤めていた火星唯一の精神科病院、ゾネンシュタイン病院。10棟の建物は、カバラの“生命の樹”を模して斜面に配置されている。

 題名のエクソダス症候群とは、強い脱出衝動を伴う妄想や幻覚に悩まされる病。火星開拓地に広がり、カズキ自身も罹患(りかん)する。その病理の解明と病院内の不穏な出来事が並行して進む。

 25年前、この病院でいったい何が起きたのか? カズキの父の過去もからんで、物語はミステリー風に展開する。鍵を握るのは、この病院最古参の患者にして第五病棟の長チャーリー。精神医療の歴史をめぐる彼とカズキの議論がかなりの分量を占め、舞台劇(たとえばピーター・ブルックの「マラー/サド」とか)っぽい雰囲気もある。通電療法、ロボトミー、薬物投与、画像診断。やがて起きるカタストロフと、驚愕(きょうがく)の真実。

 270ページのコンパクトな長編だが、他にはない味わいが、読後に強い印象を残す。

(翻訳家 大森 望)

[日本経済新聞朝刊2015年8月16日付]

エクソダス症候群 (創元日本SF叢書)

著者:宮内 悠介
出版:東京創元社
価格:1,836円(税込み)