チャップリンとヒトラー 大野裕之著「独裁者」撮影秘話、妨害と闘い

2015/8/11

独裁者ヒンケルに取り違えられた哀れなユダヤ人の床屋が、大群衆に向かって愛と平和の大切さを訴えかける……。チャップリンの映画『独裁者』(1940年公開)のラスト6分間に及ぶ演説は、映画史に残る名場面として知られている。だがちょび髭(ひげ)でおなじみのあの小男が大真面目にヒューマニズムを説く姿には、とまどいを覚える向きもあるだろう。ヒトラーを痛烈に笑い飛ばしたこの映画のラストで、チャップリンが愚直な情熱をふるって独裁者に立ち向かおうとしたのはなぜか。本書が膨大な資料から解き明かすのは、この問題作をめぐる喜劇王の「闘い」の実相である。

(岩波書店・2200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 ヒトラーの脅威が世界を席巻しつつあった当時、『独裁者』の製作は大きな困難に直面することになった。総統を笑いものにする映画の製作に反発したドイツ当局が、新聞・雑誌による反対キャンペーンや、外交ルートを通じた妨害活動を展開したばかりではない。ドイツを刺激したくないアメリカやイギリスの政府当局、海外での興行を危ぶむ映画業界内部からも、製作中止をもとめる声が上がっていた。だがそうした逆風のなかでも、チャップリンの決意は揺らがなかった。迫りくる全体主義の恐怖のなか、この希代の喜劇俳優は笑いとユーモアを武器にして、映画というメディアの戦場でもう一人の比類なき「俳優」――「救世主」のイメージを演じたヒトラー――に対決を挑んだのだった。チャップリンの草稿や製作メモからは、何度も脚本の推敲(すいこう)を重ね、際限なく撮影をくり返しながら、納得のいく表現をもとめつづける厳しい姿勢が浮かび上がってくる。

 それにしても、チャップリンとヒトラーの宿命的な関係には驚かされる。わずか4日違いで生まれ、同じちょび髭をつけ、メディアの寵児(ちょうじ)として台頭した二人の人生は、『独裁者』の製作をめぐっても必然的としかいいようがない形で対峙しあう。チャップリン初の本格的トーキー映画である本作の撮影は第二次世界大戦勃発の直後、ラストの演説の撮影はなんとヒトラーのパリ入城の翌日に開始されたという。本書が示唆するように、チャップリンとヒトラーはともに映像メディアが産んだ巨大なモンスターとして、光と影に例えられる関係にあったといえるかもしれない。イメージを武器に強大な権力を握った独裁者と、愚直なヒューマニズムでこれに立ち向かった喜劇王。両者の「闘い」は、現代においても担い手をかえて継続しているというべきだろう。

(甲南大学教授 田野 大輔)

[日本経済新聞朝刊2015年8月9日付]

チャップリンとヒトラー――メディアとイメージの世界大戦

著者:大野 裕之
出版:岩波書店
価格:2,376円(税込み)