ライフコラム

エコノ探偵団

自由貿易って、本当にいいこと?

2015/4/22 日本経済新聞 朝刊

「環太平洋経済連携協定(TPP)の是非が議論になりますが、そもそも『自由貿易』って本当にいいことなんでしょうか」。近所に住む主婦の疑問に探偵、松田章司が首をかしげた。「深く考えてみたことがなかったな。調べてみましょう」

■お互い豊かになる「比較優位」

「TPPを含め、自由貿易に反対する声も多いよね」。章司が事務所でつぶやくと、調査を手伝う同僚の深津明日香が新聞記事のコピーを見せた。「経済学者は、自由貿易を支持する人が多いみたいよ」

明日香が見つけたのは2009年9月の日本経済学会と日本経済新聞社の共同調査。「自由貿易」に対する考えを聞くと経済学者の半数以上は「無条件に尊重すべきだ」または「原則として尊重すべきだ」と答えた。一方、同じ質問を一般の人にもすると「無条件に尊重」「原則として尊重」は合計2割強にとどまり「自由貿易が制限されてもやむを得ないケースもある」という回答が6割に達した。

「経済学者と一般の人ではそんなに考え方が違うのか」。章司は実際に経済学者の話を聞こうと、東京大学教授の松井彰彦さんを訪ねた。松井さんは「経済学の基本的な考え方の中に『比較優位』というものがあります。この考え方で、自由貿易はお互いの国を豊かにすることを説明できるのです」と解説を始めた。

重要なのは「比較優位」と「絶対優位」の違い。松井さんが例え話として挙げたのが「アインシュタインと秘書」の関係だ。

天才物理学者として知られるアインシュタインは自分の秘書よりもタイプライターをずっと速く打つことができたという。この時、アインシュタインはタイプについて秘書より「絶対優位」を持っている。ではアインシュタインは秘書を雇うより自分でタイプしたほうがよいかといえば、そんなことはない。アインシュタインといえど時間が無限にあるわけではないからだ。

アインシュタインはタイプを秘書に任せて研究に専念したほうが、より優れた成果を生み出せる。2人合わせると結果的に多くの研究と多くのタイプができる。この時、秘書はタイプではアインシュタインに対し「比較優位」を持つ。お互いに比較優位を持つ仕事に専念し、そうでない仕事は相手に任せることで双方にメリットが生まれる。

比較優位の考え方による貿易理論は19世紀の英国の経済学者、デビッド・リカードが確立した。リカードは、仮に英国がポルトガルよりも毛織物生産とワインの生産の両方で優れている(絶対優位)としても、英国は毛織物生産に特化し、ワインはポルトガルに任せてお互いに貿易したほうがよいと主張した。

労働者1人当たりが生産できる毛織物の量が英国で4トン、ポルトガルで1トンとし、ワインの場合は英国が3キロリットル、ポルトガルが2キロリットルだとして考えてみる。労働者の数は英国とポルトガルのどちらも3万人ずつと仮定する。もしどちらの国も毛織物に2万人、ワインに1万人の労働者を振り分けると、両国合わせた生産量は毛織物が10万トン、ワインが5万キロリットルになる。

一方、英国は3万人全員が毛織物、ポルトガルは全員がワイン生産に従事すると、両国合わせた生産量は毛織物が12万トン、ワインが6万トンまで増える。お互いに毛織物とワインを貿易取引すれば両国とも豊かになれる。

■古典的理論、現実は複雑に

もちろん、すべての当事者にメリットがあるわけではない。それまでワインをつくっていた労働者が、すぐに毛織物産業に転職できるとは限らない。「国全体で見れば大きな利益でも、『比較劣位』にある日本の農業の関係者がTPPに反対するのは当然といえます」と松井さん。日本が比較優位を持てる高付加価値の農産品にシフトすることなどが重要になる。

実際の国際貿易はそれほど単純ではないことにも注意は必要だ。章司は国際経済学に詳しい東京大学教授の伊藤元重さんにも話を聞いた。「現実の世界の貿易は古典的な比較優位論だけでは説明がつかなくなっています」と伊藤さん。異なる産業間の貿易よりも同じ産業内の貿易のウエートが高まり、たとえば日本とドイツがお互いに自動車を輸出し合うなど、技術や経済条件が同じような先進国同士の貿易も拡大している。

こうした現象を説明する新たな貿易理論も1980年代以降に発展している。それでも、自由貿易が基本的には経済全体の利益になるという点に異論を唱える経済学者は少数派のようだ。

章司はさらに慶応義塾大学教授の中島隆信さんにも話を聞いた。「比較優位の考え方は秘書を雇うメリットや自由貿易の利益を説明できるだけではなく、様々な経済活動に応用できます」

中島さんが一例として挙げたのは「障害者雇用」だ。「たとえば障害者でも、健常者より比較優位を持てる仕事が必ずあるはずです」。企業がそうした仕事を見つけ出して障害者を雇用すれば、健常者にとっても企業にとっても効率性を高められる。

「ウチも比較優位の分野に特化しましょう」。事務所に戻った章司が提案すると、所長はつぶやいた。「お金にならない仕事でしか比較優位を持てない、なんてことにならなければいいが……」

◇            ◇

■学者と消費者、意識の差

様々な政策課題について、経済学者の意見が分かれることは多い。だが一方で、自由貿易のように多くの経済学者が賛同する政策も意外に多い。

「アメリカン・エコノミック・レビュー」誌1992年5月号の「1990年代のエコノミストの間にコンセンサスはあるか?」という記事は、米国の経済学者、政府と民間のエコノミストを対象にしたアンケートの結果を紹介している。

それによると「関税と輸入割り当ては一般的な経済厚生を低下させる」つまり自由貿易を尊重すべきだという命題への賛同率は93%にも達した。「家賃の上限規制は住宅供給の量・質ともに低下させる」も93%。「最低賃金の引き上げは、若年労働者・未熟練労働者の失業率を引き上げる」にも79%が賛同している。

グレゴリー・マンキュー・米ハーバード大学教授は著書「マンキュー経済学」の中で「もし、このアンケートが一般の人々の間で行われたものであれば(中略)これほどのコンセンサスを得ることはできなかっただろう」と指摘した。

自由貿易を阻害する輸入割り当て政策には米国の専門家がそろって反対しているのに、なぜそうした政策が続くのか。マンキュー教授は「これらの政策が望ましくないということを一般の人々に納得させることに経済学者が成功していないのも一因」と分析している。

(経済解説部 宮田佳幸)

[日本経済新聞朝刊2015年4月21日付]

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