ライフコラム

エコノ探偵団

水素で社会はどう変わる?

2015/4/8 日本経済新聞 朝刊

「最近、『水素社会』という言葉を聞きますが、水素は今後どう使われるようになるのですか」。近所の主婦が事務所に来て尋ねた。「燃料電池車(FCV)が普及したら水素社会なのかな?」。探偵の松田章司が首をかしげた。

■エネルギーを貯蔵・輸送

章司は事務所を飛び出し、まず水素の従来の用途を調べた。石油精製で原油に含まれる硫黄分の除去、プラスチックなど樹脂生成の添加剤、アンモニア合成の原料のほか、ステンレス鋼、半導体、光ファイバーなど様々な製品の製造工程で使用されていた。マーガリンや口紅の製造にも使われているのには驚いた。大半は工業用で、エネルギー用はロケット燃料くらいだ。

ところが家庭用燃料電池が発売された2009年ごろから、水素のエネルギーとしての側面が脚光を浴びる。水素と酸素が反応して電気をつくり、排出するのは水だけの燃料電池は、二酸化炭素(CO2)も出さず、FCVは「究極のエコカー」といわれている。「クリーンなエネルギーだから、水素への関心が高まっているのかな」

章司は大和総研主任研究員の大沢秀一さん(49)に聞いてみた。「地球温暖化対策のほか、石油など化石燃料は産地が偏っているため、エネルギー安全保障の観点からも水素が注目されています」。元素として水や有機物を構成し、地球上に無尽蔵にある水素は、化石燃料の改質や水の電気分解など様々な方法による製造が可能で、将来も安定して確保できるからだ。

■電気を補い、再エネ促進

次に横浜国立大学を訪ね、特任教授の太田健一郎さん(69)に水素のエネルギーとしての特徴を聞いた。「水素は電気と同様、2次エネルギーです」。化石燃料や太陽光、風力など自然界から直接得られる1次エネルギーに対し、それを加工して使いやすくしたのが2次エネルギー。最も重要な2次エネは電気だが、貯蔵や長距離輸送が困難という欠点がある。「水素は気体、液体、固体(金属への吸蔵)の各形態で貯蔵・輸送が可能なうえ、電気と相互変換できるため、電気の欠点を補完できます」と太田さん。

「電気とどう組み合わせるのかな」。章司は九州大学教授の秋葉悦男さん(63)に問い合わせた。「再生可能エネルギーから得られるのは電気で、そのままの貯蔵は困難ですが、水素に変換すれば可能です。需要地での分散型電源にも水素が適しています」。再エネの固定価格買い取り制度は、変動の大きな太陽光発電が急増し、送電網の受け入れ容量を超すとして買い取りが制限されることになった。しかし、余剰電力を効率的に水素に変換できれば、送電網への負担を心配せずに再エネを拡大できる。

すでにドイツでは風力発電の余剰電力で水を電気分解して水素をつくり、様々に活用するプロジェクトが実施されている。高効率の太陽電池開発を手掛ける東京大学教授の中野義昭さん(55)は「再エネは大量に利用できる地域や時間帯が限られていますが、赤道直下で水素に『蓄エネ』し、日本で使うといった時間・空間シフトが可能になれば、大規模な導入につながります」と説明する。

「水素の利用は再エネ促進にもなるのか。でも、道は長そうだな」。章司は国が昨年作成した「水素・燃料電池戦略ロードマップ」に目を通した。原油随伴ガスや褐炭(低品位の石炭)など海外の未利用エネルギーからの水素を30年ごろに本格導入し始め、再エネ由来など製造時にCO2を排出しない水素の供給システムを40年ごろに確立するという目標を掲げている。

新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)を訪ね、主任研究員の大平英二さん(46)に聞いた。「水素の長距離輸送には技術的課題の解決と、制度面の整備が必要です」。水素は貯蔵・輸送ができるといっても簡単ではない。常温では気体で、体積あたりの密度が低いため、国内では高圧化や液化して輸送している。大量に輸入するには技術革新やコスト低減が欠かせない。

FCVが順調に普及した程度では必要な水素量は限られるため、当分は国内の工場で製造する化石燃料由来の水素で賄える見通しだ。ロードマップが30年ごろに海外からの水素の本格導入を掲げるのも、その頃に電力分野で水素を燃やす水素発電が本格化し、国内でつくる水素だけでは不足すると想定しているからだ。「水素を本格的なエネルギーとして利用するには、水素発電など新たな需要の創出と、水素を安定的に供給するサプライチェーンの構築が必要です」と大平さん。

「当面は水素の利用を増やし、次に供給源を海外に広げる。その後、CO2フリーの水素への移行を目指すというわけか。壮大な計画だな」

章司は再び太田さんに連絡を取った。すると「エネルギーは社会の基盤で、そう簡単に変わりません。かつて液化天然ガス(LNG)も導入までに15年かかりました。水素の普及は化石燃料の価格動向やCO2の削減目標にも影響されます。将来、CO2フリーの水素が広く利用されるようになれば、究極の水素社会といえます」と指摘した。

「FCVの発売は水素社会に向けてのスタートにすぎませんでした」。章司の報告を聞いた所長は一言。「究極の水素社会の実現にワシが立ち会えるかどうか微妙だな」

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■脱炭素化の終着点に

「海底二万里」などで知られる仏作家ジュール・ヴェルヌの1874年の著作「神秘の島」では、登場人物が「水素と酸素からなる水がいつか燃料になるだろう」と述べ、水から取り出す水素が未来のエネルギー源になると予言している。

資源に乏しい日本は、以前からこの夢の実現に向けて取り組んできた。石油危機後、石油代替エネルギーの確保を目指した「サンシャイン計画」では水素関連技術の研究開発も実施。原油価格が下落した1980年代に研究は縮小したが、93年には「WE―NET構想」がスタートした。

同構想は世界各地の再エネを利用できるようにするため、現地で水素に変換して日本に大量輸送し、ガスタービンで発電するまでの中核的要素技術の開発を目指した。プロジェクトは2002年に終了したが、「日本が目指す姿は今も当時と同じで、構想に現実が追いついてきた」(NEDOの大平主任研究員)。

各種の燃料中の炭素と水素の原子数の比率は、薪が10対1、石炭1~2対1、石油1対2、天然ガス1対4とされる。つまり歴史的に新しい燃料ほど炭素比率が低下し、CO2排出量が減ってクリーンになっている。脱炭素化の終着点が炭素を含まない水素エネルギーだ。水素社会への移行は必然にも見えるが、移行にはコストがかかり、解決すべき課題は多い。

(経済解説部 谷川健三)

[日本経済新聞朝刊2015年4月7日付]

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