電車道 磯崎憲一郎著「近代の終わり」に脱線する者たち

2015/3/30付

十六世紀、すなわち近代初期の英哲学者フランシス・ベーコンの定義によれば、国家の繁栄を規定するのは「肥沃な大地、活気ある工場、人間と物資の容易な輸送」であるという。言わば(労働者の能力も含めた)高い生産力と、それらを効率よく結びつける交通こそ、資本主義の要諦というわけだ。爾来(じらい)、金融および情報資本が産業資本を凌駕(りょうが)まで、世界は変わらずその条件で成り立っていた。

(新潮社・1600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 とりわけ、大幅な体制変化を経て西欧諸国を模した後発の、それ自体人工的な近代化の所産である明治以降の「日本」は、平地の少ない島国という地理的制約を工業化と輸送システムで補ってきた。その中心かつ象徴が、類を見ぬ繊細なダイヤで走る鉄道輸送であり、路線敷設と沿線開発がセットの鉄道事業でもあった。明治にそして戦後に、我々の先達はそうやってこの国を作ってきたのだ。

 そのなかで、個々の人間はどのように生き、そして世代を繋(つな)いできたのか? 銀行勤めを辞して選挙に出るも夢破れ、偶然と権謀術数を駆使して電鉄のオーナー社長となった男の一族や、薬局仕事を逃れ家族を捨てた洞穴暮らしの後に私立学校を立ち上げる男の人生を通して、著者は「近代」が始まり最盛期を迎えるまでのこの国の百年を描こうとする――と要約すれば、『電車道』は産業歴史小説や経済・社会小説に聞こえるし、事実その側面も大きいが、本作の魅力はそこに止(とど)まらない。

 電鉄会社社長は、職業生活の出発点と着地点でごく個人的な(しかし彼にとって最も大事な)感情と記憶に突き動かされて事業に無理を生じさせる。社長の支援で村一番の土地持ちとなり学校を建て校長に就いた男は、金策に地所を売るたび、桑畑と森だけだった村が宅地化することを嘆かずにいられない。

 列車は敷かれたレールの上を走るが、乗客たちの人生は必ずしもそこに収まらず、しばしば思わぬ方向に流される。校長だった男の口癖通り「人に相応(ふさわ)しい生き方というのは、どこかで待ち伏せている」としても、いつどこでそれが訪れるかはわからない。そうした「既定」と「未定」の狭間(はざま)を描く著者の筆もまた、終盤で当初の展開から離れ、思わぬ女性と彼女が関わる産業に熱を上げてゆく。鉄路に代表される「定まった路」があったからこそ際立つ、そうした脱線は、時代を超えた“人間くささ”を描くと同時に訪れつつある「近代の終わり」を麗しく、そして懐かしくもの悲しく実感させる。

(批評家 市川 真人)

[日本経済新聞朝刊2015年3月29日付]

電車道

著者:磯崎 憲一郎
出版:新潮社
価格:1,728円(税込み)