犬将軍 ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー著グローバルな視点で捉えた綱吉

2015/3/18

徳川五代将軍綱吉は暴君か明君か? これまでの歴史記述では、綱吉はだいたい「悪王」に分類されてきた。何よりも、「犬公方(いぬくぼう)」というあだ名が綱吉への厳しい評価を現している。

(早川朝子訳、柏書房・3800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)

 最近、歴史教科書で徳川綱吉の扱いが違ってきたそうだ。綱吉は専制君主でなく、仁徳の君主であり、悪名高い「生類憐(あわれ)みの令」も「慈愛の政治」と評価されるようになったとか。さすが《一億総ペット愛玩ブーム》に湧く二十一世紀の日本らしい綱吉の《名誉回復》である。

 この『犬将軍』は、知日家の女流日本史学者による徳川綱吉の評伝である。基礎史料・関係資料・研究文献を読みこなし、博覧引証して、従来の偏見や先入観にとらわれぬ独自の綱吉像を描き上げている。特に、著者の専門領域であるケンペル研究の知見を生かして、従来、日本人歴史学者に欠けていた《外部からの視点》が光っていることは本書の特色をなすといえる。

 ケンペルはわが国では主として『鎖国論』(『日本誌』の一部が訳出)の筆者として著名であるが、医者・博物学者・旅行家のキャリアーをもってオランダ東インド会社に雇われたドイツ人である。長崎出島に滞在し、二度目に江戸を訪れた時、江戸城で間近に綱吉と会っている。綱吉のことも『日本誌』で「気宇(きう)壮大にして天性勝(すぐ)れ、父方の才徳を一身に享(う)け、国法を厳守し、臣下には極めて寛大」とかなり手放しに褒めちぎっている。

 著者はこうしたグローバルな視点から綱吉を再評価しようとする立場にあるようだ。

 著者の力点は、近代国家が生まれるには「軍事的・半封建的支配から官僚制的な中央集権支配へというパラダイムの移行」が必要であるとするM・ウエーバー政治学の図式を江戸時代史のうちに追認することにある。綱吉はその過程を体現した政治家として位置づけられる。そしてこの視点から、これまで綱吉の悪評の元だったマイナス材料は、「生類憐みの令」をはじめ、すべてプラスに反転される。

 たとえば、(1)柳沢吉保を側用人として出世させ男色趣味がらみで非難されたこと、(2)荻原重秀を勘定奉行にして悪貨を鋳造(ちゅうぞう)させたこと、(3)八百屋の娘だった生母桂昌院(けいしょういん)を大切に扱って後世からマザーコンプレックスと悪口をいわれたこと等々は、それぞれ(1)専門官僚の養成、(2)貨幣数量説の萌芽(ほうが)、(3)フェミニズムの先駆といった具合に符号を逆転した評価を与えられるのだが、これは少しひいきの引き倒しに過ぎるのではないか、と思うのはひが目か。

(文芸評論家 野口 武彦)

[日本経済新聞朝刊2015年3月15日付]

犬将軍―綱吉は名君か暴君か

著者:ベアトリス・M. ボダルト=ベイリー
出版:柏書房
価格:4,104円(税込み)

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